2021年1月31日

美味しいお米に感謝

いつだったか、晩ご飯を和食にした時のことです。

お茶碗には炊きたてのご飯、汁椀にお味噌汁、そしておかずは何だったのかは覚えていませんが、うちの夫がまずご飯を口にして言いました。

「ああ、炊きたてのご飯というのは、こんなに美味しいものなんだなあ」

味音痴の夫がそう言ったんです。

それはいつも買っている Sunriceブランドの「Japanese Style Sushi Rice」というお米でした。その日に限って上手に炊けたといわけでもないんですよ。でも、夫は本当に美味しいと思ったのです。

確かに美味しいです。美味しいのが当たり前で、つい忘れてしまいますけど。

新型コロナでパニック買いが発生した昨年は、この米が店頭から姿を消し、仕方なく日本からの輸入米「米屋が選んだ米」というのを買ったことがありますが、そのお米を食べた時は美味しさにうなりました。いつも食べている「Japanese Style Sushi Rice」に比べて段違いの美味しさでしたから。

日本のお米は、さすがです。

うちの息子と娘が幼かった頃、日本に行った時に、おかずも無しでご飯だけをもぐもぐと食べるのを見て、私の妹に「よくご飯だけを食べられるなあ」と言われたことがありますが、よほどお米が美味しかったんですよ。

現在、日本で栽培されている米のほとんどが、「コシヒカリ」と「コシヒカリ」の子孫だと聞いたことがあります。

Sunriceブランドのウェブサイトを読むと「Japanese Style Sushi Rice」はニューサウスウェールズ州で栽培されていますが、高級品質の「コシヒカリ」だと書いてあります。

やっぱり「コシヒカリ」なんです。

日本の稲の品種改良の歴史を学校で学んだのを思い出しますが、美味しいお米を食べられるのも品種改良に取り組んだ皆さんの努力のおかげです。

実は、ついさっき炊きたてのご飯を食べたのですけどね、しみじみと美味しいと思ったので、夫が「ご飯が美味しい」と言ったあの晩のことを思い出したのです。

美味しいお米を当たり前のように食べられる私達は、なんと恵まれていることでしょうかね。


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2021年1月30日

柚子は3個が生存中

植木鉢で育てている柚子の木に、数え切れないほどの花が咲いたのは、昨年の春(10月)のこと。


花の後には実ができて、たくさん落ちたけど、落ちずに大きくなってきている実が「数えてみたら100個以上あるんです!」と興奮と期待を隠せない記事を書いたのが12月の初旬でした。

その後、実は次々と落ちてしまい、

全滅!

がっくりと肩を落としていたんですけど、3個生存しているのを発見しました。見えにくいところにありました。


一番大きい実は、直径1.5センチくらいあります。

前回初めて収穫できた実が大きめのビー玉サイズでしたが、何とか落ちずにこのまま成長してあのくらいの大きさまで育ってくれると、いろいろ楽しめます。


ところで、ショッピングセンター近くのワトルの木々が、本来は冬の終わりに咲くはずの花を咲かせそうになっていると、1本はすでに満開だと、先日記事に書きましたが、その直後に猛暑となり気温が40度を超えたりしましたので、あのワトルの木々がどうなっただろうかと気になっていたんですが。

すでに満開になっていた木の花は、すっかり茶色に枯れていました。

つぼみを膨らませて今にも真っ黄色になりそうだった木は、まだ花を咲かせていません。つぼみはかなり膨らんでいたんですけど、そのままです。猛暑の後は、再び低温の日が続いていますから、そのうち咲くんじゃあないかとは思いますが。

我が家の近所で紅葉が始まっていた木々は、猛暑にめげず紅葉を続けておりまして、まだ真夏のはずですがすっかり秋の風情です。

今年の夏の天気は、例年に増してクレイジーですからね、影響を受ける植物の様子を観察するのは面白いですけど、農家の皆さんは大変ですね。

ヤラバレー地域には、モモやサクランボなど Stone Fruit(中心に硬い種のある果物)の農場が多いのですが、昨日からの大雨は影響があるでしょう。


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2021年1月29日

軍隊に入るかもしれない

オーストラリア国防軍への入隊を考えているのは、うちの娘です。

ああ…

メルボルン大学で3年間心理学を勉強し、昨年はスインバーン工科大学で優等学士課程を終了し、犯罪者の自傷行為に関する心理の研究をして論文を書きました。その4年間の学費は全部政府からの借金です。

博士課程の勉強もしたいのだそうですが、そのためには就労経験が必要なのだそうで、現在仕事を探しています。いろいろ応募しているようですが、仕事はまだ見つかっていません。

そんな先日のこと、

娘は、うちの夫が勤めるツールショップの別店舗のマネージャーをやっている人が、以前陸軍の兵士だったという話を聞きました。

この方は、大学で法律を勉強して弁護士になるつもりだったそうですが、どういう経緯でそうなったのか詳しくは知りませんが、陸軍に入ったのだそうです。その訓練の中で、極限の状況を経験するために4日間睡眠なしで訓練というのがあったんですって。

その話を聞いて、うちの娘は非常に興味を持ったのだそうです。「極限の状況を経験する」というのが寝ても覚めても頭から離れなかったんですって。

そんなことが頭から離れなくなったりするんですか…

この方は、これまでに6回も海外の紛争地域に派遣されていて、爆弾で片方の耳が聞こえなくなったことと過酷な勤務で身体を悪くしたために除隊し、その後救急隊員になるトレーニングを受けることを考えたものの、結婚して子供さんが生まれたのをきっかけに、もっと家族と一緒にいられて普通の暮らしができる仕事というのを希望し、家から近いツールショップに勤めることにしたという方です。

能力の高い人ですから、すぐにマネージャー職に抜擢されましたが、うちの夫は会社の上の人に「この人を一つの店のマネージャーにしておくのはもったいない」と、別のポジションを勧めているそうです。

それはともかく、

うちの娘は、犯罪者の心理を研究したくらいですから警察に勤めることを考えていたそうですが、軍隊でも心理学のスペシャリストが必要だということと、オーストラリア国防軍に採用されると軍から給料をもらいながら博士課程の勉強ができることに強く惹かれたんですって。

それで、先日、この方に軍隊の仕事について話を聞きに行きました。軍隊での仕事について調べるていくうちにどんどん関心が深まり、現在結構真剣に検討しています。武器を持って任務に当たる兵士になるのではなく、兵士をサポートする仕事です。

紛争地域に派遣されても、危険な現場に出ることはなく基地の中で勤務するんでしょうし、オーストラリア軍の基地が攻撃されたというのは聞いたことがないですから、基地の中は安全なのでしょう。

選考は一年以上を要するそうで、ありとあらゆるテストが繰り返し行われます。身体能力を試す体力テストもあり、心理学者達にはこれがハードルが高いそうです。

問題は、本人の不安障害がまだすっかり良くなっていないということでして、先週から再びカウンセリングを受け始めました。それに最近は運動をしていませんから、体力をつけるための運動も始めました。

警察にしろ軍隊にしろ、私が若い頃には考えもしなかったような分野での仕事を考えている娘ですが、本人がやりたいと思うなら、何事も挑戦すればいいと思うお母さんです。

でも、正直言って驚きました。

軍隊とは…


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2021年1月28日

女性の月経と貧困の問題

先日「オーストラリア・デー」の日に発表された国民栄誉賞「オーストラリアン・オブ・ザ・イヤー」のヤング部門の受賞者は、「Period Poverty(女性の月経と貧困の問題)」に取り組んでいる22歳のイゾベル・マーシャル(Isobel Marshall)さんでした。

このニュースを聞いたうちの夫は、

「Period Poverty?何だそれ?」

と言いました。

うちの夫は物知りで、社会問題に関して知識も豊富なのですが、その夫が「Period Poverty」を知らないのかと思いました。

生理用品が普及しているオーストラリアでは、「Period Poverty」が社会問題とは考えられませんが、月経にまつわるスティグマは存在します。

スティグマというのは、不名誉や差別や偏見の対象となる属性及びにそれに伴う負のイメージのことです。

世界中の多くの社会で、女性の月経は「不浄、汚れたもの」とされており、その「不浄」という観念が「禁忌」や「タブー」を生んでいます。日本も例外ではありません。世界には、現在でも月経中の女性が小屋に隔離されている社会があります。

イゾベルさんが「Period Poverty(月経と貧困の問題)」に取り組むきっかけになったのも、この月経に関するスティグマへの関心だったそうです。

ハイスクールの時に社会事業というものについて知ります。収益を社会に還元するビジネスです。友人と二人で自分達のオリジナル生理用品ブランドを作り、その収益を社会に還元するというビジネスを計画しました。

大学進学前のギャップイヤーを使い、クラウドファンディングで集めた資金で、倫理的に生産されたオーガニックの材料から生理用ナプキンやタンポンを作る会社を作ろうと活動する中で、海外の貧困国の少女や女性達が直面している「Period Poverty」を知ったそうです。

そうした貧困国では、そもそも生理用品が一般的に普及していません。生理用品を利用できるのは一部の女性達に限られます。処理できるものはボロ布くらいしかないような状況では、学校に通う事は困難です。

教育の機会が与えられている貧困国においても、月経が始まると少女達は学校へ通うことができなくなる。

月経のために教育や様々な「機会」を失い、貧困から脱出できない、あるいは困難な状況で生きるしかない。

男性に比べ、女性は様々な面で不利な立場にあるわけですが、月経というものが一つの原因になっているという現実を知り、イゾベルさんと友人は二つの問題に取り組むことを決めました。

一つはオーストラリア国内にも残る月経に関するスティグマ、そしてもう一つは貧困国における「Period Poverty」でした。

そのために作ったのが「TABOO」という団体です。

オリジナル生理用品の製造と販売、収益の社会還元、オーストラリア国内で困難な状況にある女性達への生理用品の提供、貧困国への生理用品の提供及び月経やその処理方法に関する教育に取り組んでいます。

イゾベルさんは、現在大学で医学を勉強中です。医者として「TABOO」を通した保健と医療と教育に取り組むことを目標にしているそうです。一緒に「TABOO」を設立した友人の方は、経営ビジネス面を担当しているそうですよ。

若い二人の今後の活躍を期待したいです。


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2021年1月27日

桃は毛の生えた皮ごと食べてます

「桃は毛の生えた皮ごと食べる」という記事を書いたことがあります。調べてみたら、2013年1月12日の記事でした。8年前の夏です。

「文化の違いとはいえ、なかなか受け入れがたい『オージー流』は少なくはない」で始まるその記事では、受け入れ難い「オージー流」の一つとして、オーストラリア人が桃の皮をむかずに毛の生えた皮ごと食べることについて書いているのです。

毛の生えた皮ごと桃を食べるオーストラリア流を少しバカにしたような論調で、皮ごと食べるとモシャモシャして、せっかくのとろけるような桃の食感が台無しになるし、皮はおいしくないぞと、桃は皮をむくべきであると書いているんですけどね。

そうかあ、

そういう時もあったのだ…

2018年1月24日には、「桃を皮ごと食べるようになった私」という記事を書いています。

桃を毛の生えた皮ごと食べるような日が来るとはねえと、やや自嘲気味な論調です。皮には酸味があって美味しいけど、問題は食感だと書いています。

その記事からさらに3年が経ちました。

現在夏の果物が美味しい時期でございまして、買い物に行く度に桃を買って来るのですけどね、その桃の皮をむいていた頃があるというのが信じがたい気分です。

だって、もう最近は、当たり前のように、

毛の生えた皮ごと食べているんですから!

桃の皮をむくなんて、どうしてそんな面倒くさくてゴミが出ることをしていたんでしょうか?

桃はね、洗えば毛はほとんど洗い流されますよ。モシャモシャ感は桃の皮の特徴なのでしてね、私はもう食感に問題があるとは感じないんです。むしろ、皮の酸っぱさが甘い果肉の味と混じると「これぞ桃だ!」という美味しさなんです。

それに、出るゴミは種だけ。

縦に切って、ひねってパカリと二つに割り、種を取り除いたら、食べやすく切るだけです。ナイフを汚したくなければ、リンゴを2つに割る要領で結構簡単に素手で割れますから。こんな簡単なことはありません。

日本の桃に比べてオーストラリアの桃は皮が薄いということは、過去の記事で否定していますから、やはりこれって慣れの問題なんでしょうか。

とにかく、もう戻れないのでございますよ。

桃の皮をいちいちむいで食べるなんて、そんな面倒くさいこと、もうできないの。

最近は、リンゴの皮をむいたりもしなくなりました。リンゴは芯を取り除いたら8切れか12切れに切って皮ごと食べます。皮こそが食べるべき部分だと確信しております。

こうして、受け入れ難い「オージー流」がまた一つ減ったわけですけど、最も受け入れ難い「オージー流」である「洗剤で洗った食器をすすがずにそのまま乾かす」は、死ぬまで受け入れないことは100パーセント確実です。


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2021年1月26日

受賞者は全員女性

毎年、「オーストラリア・デー」の1月26日の前日に「オーストラリアン・アブ・ザ・イヤー」という国民栄誉賞の受賞者が発表されます。

年齢に関係なく選考される最高賞の「オーストラリアン・アブ・ザ・イヤー」以外に、シニア部門、ヤング部門、そして地域のヒーローという4つの賞があり、各州及び特別区で候補者が選考され、その中から選ばれた受賞者が「オーストラリア・デー」前日に発表されるのです。

「オーストラリアン・アブ・ザ・イヤー」の受賞者は、科学者や医者が多かったですが、俳優のジェフリー・ラッシュやテニス選手のパット・ラフターが選ばれたこともありました。スポーツ選手は度々選ばれています。歌手や芸能人が選ばれたこともありました。

私は、それほど関心はなかったんですけど、注目するようになったのは、ロージー・バティーさんが選ばれた2015年からです。

ロージーさんは、普通の一般女性でしたが、家庭内暴力の被害者でした。息子のルーク君(11歳)を町のクリケットグラウンドで練習を見に来ていた父親に殴り殺されました。ロージーさんの目の前で。

今でも鮮明に覚えていますが、事件の直後から、ロージーさんは憔悴しきった姿でメディアのカメラの前に立ち、家庭内暴力の被害者が心理的あるいは経済的理由で泣き寝入りしていると、家庭内暴力の被害者の声に耳を傾けてくださいと、社会に対して訴えました。

ルーク君の事件が衝撃的だったことと、お母さんのロージーさんがこの問題を人々に訴え続けたことで、メディアが家庭内暴力について報道するようになり、国民の意識は大きく変わって行きました。

社会が変わるきっかけになった勇気あるロージーさんは、まさに「オーストラリアン・アブ・ザ・イヤー」という賞にふさわしい人でした。

こういうわけで、翌年2016年の受賞者にも注目していましたが、この年の受賞者は、元オーストラリア陸軍司令官のデイビッド・モリソン氏でした。この方の受賞にも、私は大変感激したのです。

モリソン氏は、陸軍におけるある事件をきっかけに有名になりました。軍内で複数の男性将兵が女性将兵の性行為動画をこっそり撮影し電子メールで配布していたことが明るみに出て、軍内に根強く存在する女性軽視やハラスメントを許容する文化が問題視されたのですが、その直後に、当時陸軍司令官だったモリソン氏が「女性を対等の人間として尊敬できない者は軍を去れ」と厳しく命ずるメッセージが発表され、これによって多くの国民がこのモリソン氏の存在を知ることになりました。

このスピーチを書いた当時陸軍中佐のケイト・マクレガー氏も、「オーストラリアン・アブ・ザ・イヤー」の候補に選ばれていました。マクレガー氏は、トランスジェンダーの女性です。

オーストラリア社会に根強く残る性差別や人種差別、偏見やハラスメント、家庭内暴力などの社会問題を、もっとオープンに報道して論じることで、人々の意識が変わり、ここ数年でオーストラリアの社会は目だって変わってきたと感じます。

そのきっかけを作った人達が受賞者として選ばれたことで、私はこの賞に注目するようになったわけです。

今年の受賞者は、26歳のグレース・テイム(Grace Tame)さんでした。

グレースさんは、15歳の時、ハイスクールの58歳の数学教師から性的虐待を受けた被害者だそうです。タスマニアでは、性被害者の身元を特定できるような情報を報道することが禁止されており、その法律のせいで彼女は公に発言することができませんでした。

加害者はSNSで自分の行為を自慢したり、インタビューに応じて自分が被害者であるかのような発言をしたりできても、被害者のグレースさんには発言の権利がなかったのです。このことがきっかけで「#LetHerSpeak」という運動が起こり、グレースさんは裁判によりタスマニア州から発言権を勝ち取りました。

ヴィクトリア州でも同様の法律が制定されようとしていましたが、それは阻止され、タスマニア州のこの法律は変更されて、被害者が発言できるようになりました。

グレースさんは、その後、子供の性被害を防止するための教育活動を行っています。また、被害者にも非があるという社会の意識を根絶すること、被害者が性被害について普通に発言できるようにすること、連邦法と州法の一貫性を求めて活動しています。

なるほどそういう人が選ばれたのか!

また、今年のシニア部門の受賞者は、先住民族アボリジニ初の教師だったMiriam-Rose Ungunmerr-Baumannさん、ヤング部門は女性の月経と貧困の問題に取り組むIsobel Marshallさん、そして地域のヒーローはケニアからの移民のRosemary Kariukiさん。自分と同じ移民の家庭内暴力や言葉の問題による孤立や貧困などに取り組んでいます。

全員女性でした。

今年候補になった皆さんの詳細は、こちらのオフィシャルサイトで読むことができます。

ちなみに、候補者はお役所の人達が選ぶのではなく、一般国民が推薦します。選考するのは有識者の選考委員たちです。


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この夏初めての40度超え

メルボルンの1月は、暦の上では真夏のはずですが、我が家の近所では広葉樹が色づき始めておりました。

一日の温度差が大きいとより鮮やかな色になると聞きますけど、朝は寒いほどに気温が下がっていましたから、本当に赤や黄色に葉っぱが色づき始めていたんですよ。

先々週は!

ところが、

突然の連続真夏日!

そして、ついに、

昨日はこの夏初めて40度を超えました!

朝に晩に、水やりを欠かさず野菜を育てていたうちの娘ですが、完全に収穫の見込みがなくなっていたズッキーニに関しては「もういい!死なせる!」と宣言しましてね、水をもらえないズッキーニは哀れこんな有り様。


もう完全にオシマイです。

箱型野菜畑のキュウリとインゲンは、まだ見限られていないようで、水をもらってサバイバル中ですけど、水の無駄ですよ。もうダメです。今年は天気が異常過ぎました。

ズッキーニもトマトも、1個も収穫できませんでしたからね、野菜栽培初挑戦の娘はさぞ残念だったことでしょう。

紅葉し始めていた木々も、盛大に春の到来を告げていたワトルの木々も、昨日までの猛暑でさらに混乱しているのは確実ですが、今朝は雨も降っていますし肌寒いくらい気温も下がっていますから、この後どうなるんでしょうか。


ところで、今日は「オーストラリア・デー」です。BBQとオーストラリアデー反対集会(別名「侵略の日」大集会)の日ということですが、メルボルンは天気が悪いです。

屋外でBBQをするには、「暗い、雨、肌寒い」と三拍子揃っていて、ちょっとアレです。

大集会もね、新型コロナの件がありますから、違法に大勢の人が集まったりはしないでもらいたいものです。


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2021年1月25日

一番簡単なチーズケーキ

メルボルンは暑いです。

最高気温が、昨日は39度、今日は41度の予想です。

こういう暑い日には冷たいデザートが食べたいと思い、先日チーズケーキを作ろうと思って買っておいたクリームチーズで何か作ろうと思ったんですけど、暑いから火を使いたくなかったのです。

オーブンなんてもちろんのこと、ガスコンロで加熱したり、そういうこともしたくなかったんです。

それじゃあ「ノーベイク・チーズケーキ」を作ろうとレシピを探してみたんですけどね、見るレシピ見るレシピ、サワークリームだのゼラチンだのヨーグルトだのコンデンスミルクだの、

材料がいろいろ必要なのはイヤだ!

それに、材料の量がですね、ビミョ〜なのや大量過ぎるのが多いのですよ。

アメリカ人のレシピは、使う単位が違うから分かりにくいんですけど、砂糖やコンデンスミルクを大量に使い過ぎなんです。

私は、計量はできるだけ簡単にやりたいし、

あんまり甘いのはイヤだ!

そこで、考えました。

基本的な材料だけで作れて、計量も簡単で、火を使わなくて、誰でも簡単に作れるチーズケーキというのを。

できたのが、この「Super Easy No-bake Cheesecake」というチーズケーキです。


固まるかどうか自信がなかったんですけど、ちゃんと固まりました。ふわふわと軽い食感とレモンの爽やかさが素晴らしいです。(自画自賛!)

砂糖は60グラムしか入っていませんけど、十分に甘くて美味しいです。これに砂糖の入ったフルーツソースなんてかけたくなかったので、家にあったブドウとマンゴーを乗せました。

材料と作り方は以下のとおりです。(オーストラリアの1カップは250ml)

<材料>
1.土台
マリービスケット 半パック(125g)
バター 60g(約1/4箱)

2.フィリング
クリームチーズ 1箱(250g)
レモン汁 大さじ1
アイシングシュガー(粉砂糖) 1/2カップ *Caster Sugar 1/4カップでも良い
クリーム(Thickened Cream または Heavy Cream) 1カップ 

<作り方>
1.ビスケットを細かく砕いてサラサラの砂のようにします。電子レンジでチンして溶かしたバターを混ぜます。水分が足りないと思ったらミルクかクリームを大さじ1〜2杯混ぜてください。
2.直径18センチくらいの底が外せるバネ式のケーキ型にベーキングシートを敷いて、ビスケットを砕いたのを敷き詰めて、計量カップなど底が平らなものを利用して押し付けます。フィリングを準備している間、冷蔵庫に入れて冷やしておきます。
3.クリームを泡立てます。別のボウルに室温で柔らかくしたクリームチーズにレモン汁と粉砂糖を入れて、なめらかになるまで混ぜ、これに泡立てたクリームを加えてよく混ぜます。
4.ケーキ型に流し入れて最低3時間は冷やしてください。私はお昼頃に作って晩ご飯の後に食べました。
5.ケーキの周囲にナイフを入れてから外します。お好きなフルーツを飾って完成です。ブドウは思いがけず大変チーズケーキの味にマッチしていました。


これより簡単なチーズケーキは、聞いたことがないですよ!

とにかく簡単なのが好きな私ですが、いやあこのチーズケーキは一発で上手く行きました。注意することはただ一つ。クリームチーズもクリームも低脂肪の商品は使わないということです。脂肪分が足りないと固まらない可能性が大きいです。バターも塩味のついている普通のバターです。

ぜひお試しください。


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2021年1月24日

アメリカ国歌の歌詞

先日、米国のワシントンでジョー・バイデン氏の大統領就任式がおこなわれ、レディーガガが米国国歌「Star Spangled Banner(星条旗)」を歌いましたね。私は感動して涙が出ました。

レディーガガの歌唱も力強くて素晴らしかったですけど、議事堂乱入事件で象徴されるトランプ禍が終わったという背景や「民主主義は守られた」という喜びも手伝って、より感動的だったと思います。

それにしても、米国国歌「Star Spangled Banner(星条旗)」というのは、本当に聞く人の気持ちを高揚させる歌詞とメロディーですよね。

この歌は、第二次独立戦争とも呼ばれる米英戦争のある出来事を歌っています。 アマチュアの詩人だったフランシス・スコット・キーという人が書いた「マクヘンリー要塞の防衛戦」(The Defence of Fort M'Henry)という詩がもとになっています。

このキーという人は、マクヘンリー要塞が英国海軍から激しい艦砲射撃を受けた時、英国軍に身柄を拘束されて艦上にいたんだそうです。

一晩中続いた砲撃の後、夜明けに星条旗がまだはためいているのを見て感激して、この詩を書いたそうですが、この詩の一部が後にジョン・スタフォード・スミスという英国人が作った曲(酒飲み歌として人気があった)のメロディーにアレンジされて「Star Spangled Banner(星条旗)」という歌になったそうです。

そして、その歌が国歌に採用されたのは1931年のことだそうですから、それは第2次世界大戦のちょっと前のことなのです。

歌詞には「砲弾」だの「爆弾」だのという言葉が含まれており、まさに戦いのことを歌っているわけですが、米国国内ではこの歌詞に対して批判もあるのだそうです。

そもそも、独立を果たした米国と英国が何故また戦争をするに至ったかということに注目しなくてはなりません。

私は、この詩の背景となったのは、英国からの独立をかけて戦った独立戦争だと勘違いしていたのですが、実際には独立後の米英戦争でした。米英戦争は「インディアン戦争」とも呼ばれています。

ご存知のように、アメリカ大陸には先住民族が住んでいました。入植白人達に住んでいた土地を奪われた先住民族は、次第に内陸部や西部に追いやられていきます。

開拓(侵略)は、さらに西へ南へ北へ(植民地カナダ)と拡大し、彼らは自分達の生存のために戦うしかなかった為に、米国と対立する英国と手を結んだのです。

独立後も米英間には緊張が続いており、英国による海上封鎖で経済的な打撃を受けていた米国では反英感情が高まっていたそうですが、先住民族による激しい抵抗の背後に英国がいると考えた米国は、解決のためには英国と戦争するしかないと判断したそうです。

当時、ナポレオン戦争で米国と戦争をするような余裕のなかった英国に戦争を仕掛けて、植民地カナダを我が物にしようという思惑もあったそうです。

ですから、宣戦布告したのは米国側でした。

英国軍の攻撃は主に海から、地上では先住民族が攻撃したんだそうですが、先住民達の戦いは自分達の生存を守るための戦いですよ。

それに、多くの黒人奴隷が英国軍に参加して、自由を求めて戦ったそうなんです。

戦争は長くは続きませんでした。米英の両方が経済的にも軍事的にも疲弊していたからです。

この戦争で、多くの先住民族は消滅寸前まで虐殺され、領土を奪われました。先住民を追い出した広大な土地は米国のものになり、入植白人達がさらに開拓を進めることになります。

英国軍に参加して戦った黒人奴隷達は買い戻されました。

こうした戦争の中で、フランシス・スコット・キーという人が「マクヘンリー要塞の防衛戦」という詩を書き、それが国歌になったわけです。このキーという人は、奴隷制度の熱烈な支持者でもあり、何人もの奴隷を所有していた記録が残っているそうです。

そして、この詩には、「金で寝返った者や奴隷に逃げる場所はない」という箇所があるのですよ。

And where is that band who so vauntingly swore
That the havoc of war and the battle's confusion,
A home and a country, should leave us no more?
Their blood has washed out their foul footsteps' pollution.
No refuge could save the hireling and slave
From the terror of flight, or the gloom of the grave:
And the star-spangled banner in triumph doth wave,
O'er the land of the free and the home of the brave.

基本的に、この戦争は、土地を手に入れること、開拓(侵略)を進めることが目的だったのですからね、自分達の生存のために戦った先住民族や自由を求めて戦った黒人奴隷をも相手にした戦争なのですからね、この詩が国歌にふさわしくないという意見があるのは当然でしょう。

この事実を、どれくらいの米国人が知っているんでしょうか。

国歌の最後の部分、

Oh, say, does that Star-Spangled
Banner yet wave
O'er the land of the free
And the home of the brave?

ああ、教えてくれ あの星条旗は今もはためいているか?
自由の地の上で
勇者たちの故国の上で

という、まさに気持ちが高揚する感動的な部分もね、「自由のために戦う勇者たち」というのが戦っている相手が「先住民族や黒人奴隷」となると、

ちょっと違うでしょ…

と思わずにはいられません。


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2021年1月23日

建国の日か侵略の日か

「オーストラリア・デー(Australia Day)」が近づいてきました。

「オーストラリア・デー」は、建国記念日のようなものですが、毎年1月26日と決まっています。なぜ1月26日かというと、1788年の1月26日に英国からの第一船団(First Fleetと呼ばれる)がポート・ジャクソン湾に到着した日だからです。

多くのオーストラリア人にとって、「オーストラリア・デー」は家族や友人が集まってBBQを楽しむ日という程度に考えられており、スーパーなどではオーストラリアの国旗がデザインされた各種BBQおよびアウトドア商品が売られ、肉やソーセージのCMが話題になるのですけど。

近年ちょっと様子が変わってきています。

この日を「オーストラリア・デー」とすることに反対する人々が増えているのです。先住民族アボリジニの人々にとって、1月26日は「侵略の日」だからです。この日に英国の植民が始まったことにより、彼らの悲劇も始まったのです。

初期の入植者の多くが流刑囚だったことはよく知られていますが、オーストラリアへの入植者は急激に増えていきました。彼らが開拓した土地には、アボリジニが住んでいたわけですから、当然争いが起きます。

入植の初期には、アボリジニを捕獲・殺害する権利が法律で認められていて、まるでキツネやウサギを殺すようにアボリジニが虐殺されました。タスマニアでは全滅しました。

後になって、保護政策に名を借りた強制移住がおこなわれました。東海岸沿岸部の豊かな地域に居住していたアボリジニは、白人との衝突を避けるために遠く離れた内陸部の不毛の乾燥地域に追いやられました。

アボリジニの子供を「進んだ文化」の元で育て、イギリス式の教育を受けさせるとの建前で実施された恐るべき政策もありました。この政策では、10万人ものアボリジニの子供達が親から引き離されて、多くは強制収容所や孤児院など監獄のような環境の施設に送られました。そこで虐待を受けた子供も多かったのです。

こうした悲劇の始まりの日を「オーストラリア・デー」として国民が祝うことに反対する人達は、毎年この日に集会を開いて、日付の変更を求めてきました。

この運動が年々大きくなって、最近では全国各地で大規模な反対集会が開かれるようになっているのです。集会に参加する人達は、アボリジニの人達だけではありません。世論調査によると今や国民の半数以上が、「オーストラリア・デー」の日付を変更した方が良いと考えているそうです。

アボリジニの皆さんの痛みは、容易に理解できますよね。

自分たちの祖先が殺戮され、迫害され、土地を奪われた、苦難の歴史が始まった日を、自分達の国の始まりの日だと祝うことなんてできませんよ。

「オーストラリア・デー」の日付の変更とともに議論されてきたのがオーストラリア国歌「Advance Australia Fair」の歌詞です。歌詞の一節に「For we are young and free」という部分があるのですが、アボリジニは何万年も前からこの大陸に住んでいたわけですから、オーストラリアを若い国と認識することに抵抗があるわけです。

この歌詞は、今年1月1日から「For we are one and free」変更されました。

「オーストラリア・デー」の日付の変更に関する議論は、年々盛り上がってきていますし、世論もそれを支持していることから、いずれは変更するしか無いだろうと思います。私は、オーストラリアの白豪主義(白人至上主義)が廃止され多文化主義に転換した日、すなわち人種差別禁止法が制定された日が建国の日にはふさわしいのではないかと思うんですけど。

あるいは、1月26日の「オーストラリア・デー」という名前を「侵略の日」に変えて、この日はお祝いをするんじゃあなくて過去の悲劇や政策の過ちなどを振り返り、反省する日にするとか。

反対集会は年々大規模化していて、近年は何万人もの人が集まるようになっています。今年の「オーストラリア・デー」にも反対集会は計画されているそうですが、今はとにかく新型コロナの問題がありまして、大規模集会は違法です。集会には参加しないでくださいと連邦政府も州政府も呼びかけていますが、どうなるのでしょうか。


オーストラリアでは、全国的に新型コロナの市中感染者は、ほとんど出ていません。新たに見つかる感染者は帰国者あるいは渡航者がほとんどです。

ヴィクトリア州は何ヶ月も海外在住のヴィクトリア州民の帰国を受け入れませんでした。やっと先月受け入れが再開されましたが、まだまだ多くのヴィクトリア州民が帰国できずに困っているそうです。

それなのに、テニスの全豪オープンに参加する選手やその関係者を大量に受け入れて隔離施設であるホテルを利用させていることに、批判が出ています。

2週間の隔離中、選手たちは毎日決められた時間は外に出て練習ができるということだったそうですが、渡航便に感染者が何人も見つかっておりますので、選手たちは外出禁止となって練習ができないため、不満が噴出しているそうですが。

こうした処置に対して、ヴィクトリア州政府を激しく批判していた選手の一人は、先日症状が出て新型コロナに感染していたことが分かりました。渡航前検査では陰性だったはず。どこで感染ったんでしょうね。

テニスの選手だろうとハリウッドの映画スターであろうと、検査や隔離に関しては一般市民と同じルールでちゃんとやってもらわないと困ります。


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2021年1月22日

レシート検査と中国嫌悪

先日、米国の連邦議会議事堂乱入騒動があった時、ほとんどが白人だった乱入者への警察の甘い対応が問題視されました。

もしも乱入したのが黒人だったら、あんなことでは済まなかっただろうと言われています。

黒人であるというだけの理由で、警察や当局から不当な扱いを受けることや、その扱いが命にも関わること、あの国に根強く残る人種差別や偏見という社会問題が、昨年は BLM(Black Lives Matter)運動に発展しましたが、人種差別や偏見はここオーストラリアにもあります。

白豪主義というアパルトヘイトにも匹敵する白人最優先主義とそれに基づく非白人への排除政策があった国です。

1973年の移民法と憲法の改正、そして1975年に人種差別禁止法が制定されて、原則的に移住手続きや移民の教育や雇用などに関して人種差別が禁止されるまで、人種差別が国の政策だったんですからね。

私がメルボルンで暮らすようになったのは1993年ですが、人種差別禁止法から20年近くが経っていた当時でも、差別を経験することはまれなことではありませんでした。

田舎の町のベイカリーで注文する順番を持っていると店の人から無視されたり、デパートで「May I help you?」なんて言ってもらえないから、こちらから「ちょっとすみません」と声をかけても「何?」と冷たい対応を受けるとか。

当時デパートのスタッフは、どこのデパートへ行ってもほぼ白人でしたが、不当な扱いを受けた経験と、身なりが良い時はマシな扱いを受けるという経験から、買い物に行く時はできるだけ良い服を来て、メイクなどもちゃんとして出かけるようにしていました。

こうした事情は、より多様な移民が増えて多民族多文化主義が発展し、教育のおかげもあって大変向上したと思います。

それでも、人種偏見というのは根強いのでしてね。

特に最近は、激増した中国人移民と、中国という国への嫌悪感が手伝って、中国人のおばちゃんに見える私は、冷たい扱いを受けることが度々あるのです。

小売業に従事するスタッフというのは、店にやってくるお客に対しては公平な接客態度が求められるはずですけど、あからさまに小馬鹿にするような態度の人がいるんですよ。私が普通に英語ができると分かるとコロッと態度が変わったりします。

ところで、

私は食品や日用品の買い物には Coles というスーパーを利用していますが、いつもセルフチェックアウトをします。自分の好きなように買ったものを袋に詰めたいのと、レジのおばさんと会話するのがうっとおしいので、セルフチェックアウトの方が好きなのです。

スーパーへ行く前に八百屋やアジア食品店で買い物をしますから、スーパーのショッピングカートには他の店で買ったものが入っています。

私のように他の店で買ったものをショッピングカートに入れた状態で買い物をする人は大勢いますよ。そして、私はこれまでに、そうした他の店で買ったもののレシートを見せろと言われている人を見かけたことは、ほとんどありません。

しかし、

私はこれまでに、4回くらいレシートを見せろと言われたことがあるんです。

セルフチェックアウトは、不正の温床であるということは分かるんですけどね、今日もまた、レシートを見せろと言われたのでございます。

今日は、スーパーの前に八百屋に行ったので、買い物袋に詰めた野菜をたくさん持っていたのですが、

「ちょっと貴方、これ(袋に入っているもの)のレシートは持ってるの?」
「レシート?もちろん持っていますよ、はいこれです。全部野菜ですよ。あそこの八百屋で買った野菜です。どうぞ、全部調べてくださって結構です!」

その中年女性スタッフは2秒ほどレシートを見ましたがね、何をチェックしたんでしょうか。

これで5回目!

こういう事が度々あるのでね、私はどこで何を買う時も、必ずレシートをもらい、家に帰るまで絶対に無くさないように気をつけているのです。

万引窃盗対策に店の入口で見張っている人達には、店に入る時にアイコンタクトして必ず挨拶しますし、出る時には自ら進んでバッグの中を見せます。泥棒扱いされるのは嫌ですから。

これと人種偏見は関係ないだろうと思ったら大間違いです。

止められてバッグの中を見せろとかレシートを見せろと言われるのは、有色人種のほうが絶対に多いんだから。

それとねえ、英語ができない中国人移民の高齢者の皆さんですよ。きっと肩身が狭い思いをしていますよ。馬鹿にする人達の、あの見下すような目つきがホントに嫌な感じです。


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中長編みの玉編みで作る花模様

今日は久しぶりに編み物の記事です。

これは先週編み始めたクッションカバーです。


この模様の編み方は、スター編み(Star Stich)とかデイジー編み(Daisy Stich)とかジャスミン編み(Jasmin Stich)とか、様々な名前で呼ばれているようです。

編み地は相当に分厚くなりますので、ひざ掛け、クッション、座布団、バッグなどに向いている編み方だと思います。ルームマットを編んだこともあります。下の写真は、ポシェットになる予定のものです。



基本的に、中長編み3目あるいは4目の玉編みで作る模様です。玉編みというのは、簡単に言うと、一つの目に完成させない長編みや中長編みを数回してから、それをまとめて1目にし、立体感を出す編み方です。

玉(ボール)のような形状になるので玉編みと言うのでしょう。英語ではパフスティッチ(Puff Stitch)と呼ばれますので、この花模様をデイジーパフ(Daisy Puff)と呼ぶ人もいます。

玉編みを3目で作るか4目で作るかは、使用する毛糸や好みに応じて好きなようにすれば良いと思いますが、この模様を編む過程で玉編み3つ分の糸を一度にまとめる必要があるので、3目の場合だと一度に18目がかぎ針にかかっている状態になります。4目の場合は一度に24目がかかっている状態になります。

これを一度でまとめなければなりません。慣れてしまえば、24目をまとめるのも難しいことではないんですが、太い毛糸ではそこのところが困難になりますので、糸選びに注意してください。

今編んでいるクッションカバーは、4PLY(中細)の毛糸を使って、中長編み4目で玉編みにしています。(以下の説明では並太の毛糸と4ミリのかぎ針を使っています。)


1.編み始め

鎖を2目作ります。


糸を2センチくらい引き出します。この2センチという長さを常に同じにしなくてはいけません。これが玉編みの長さ、すなわち花弁の長さになります。


1番最初の目に完成させない中長編みを3回してください。長さを同じに揃えることが大切です。(注意: 4目で玉編みをしますが、かぎ針にすでに糸がかかっている場合はそれを1目と考えます。)


かぎ針にかかっている糸を全部まとめて1目にします。この時、どうしても糸が引っ張られて縮むので、引っ張られないように左手の指で糸を持った状態でまとめます。


まとめたら、左手の指で持っている糸の下から糸を引っ掛けて、その引っ掛けた糸と先ほどまとめた糸を一緒に編みます。細編みの要領と同じです。




この後、緩み防止の鎖を1目編みます。(まとめた後の緩み防止の鎖1目は必ず編んでください。この緩み防止の目に玉編みを編むことはありませんのでキツめに編んでもいいです。)


もう一度やってみましょう!

まず糸を2センチくらい引き出して、



中長編みを3回して、


糸が引っ張られないように左手の指で糸を持った状態でまとめます。


まとめたら、左手の指で持っている糸の下から糸を引っ掛けて、その引っ掛けた糸と先ほどまとめた糸を一緒に編みます。




忘れないように緩み防止の鎖を1目編みます。


この玉編みを好きな長さになるまで繰り返します。


分かりにくいですか?

やはり動画がいいですよね!

この編み方を紹介している動画は、YouTubeでたくさん見つけることができますが、この人の動画が大変わかり易いです。ロシア語で説明していますが、言葉が分からなくても編み方は分かります。

注意: この人は最初に鎖を2目作っていません。いきなり最初の1目から始めています。大差はありませんが、私は他の玉編みと同じになるように2目鎖を作ってから始めます。



2.立ち上がり

好きな長さになったら、立ち上がり分の玉編みを一つ編みます。


3.花模様のスタート

立ち上がりの玉編みの頭のところと、一つ前の境目、もう一つ前の境目、合計3箇所(ピンク色の星印の所)に中長編みをしていきます。


すでにかぎ針に糸がかかっていますから、★1には完成させない中長編みを3回します。★2と★3には4回してください。


これを全部一度にまとめます。

まとめ方は、玉編み一つの時と同じです。

まずは、糸が引っ張られないように左手の指で糸を持ちながらまとめてください。


まとめたら、左手の指で持っている糸の下から糸を引っ掛けて、その引っ掛けた糸と先ほどまとめた糸を一緒に編みます。




忘れないように、緩み防止の鎖を1目編みます。


これを段の端まで繰り返します。


ロシア人の方の動画で、この部分を見てみましょう。(2分4秒くらいから)



4.端まで行ったら立ち上がり、同じことを繰り返す

端まで行ったら、緩み防止の鎖1目を忘れないように編んでから、立ち上がり分の玉編みを一つ編みます。そして、ステップ3の繰り返しです。

だんだん慣れてくると糸の緩め具合とか玉編みの締め具合などコツが分かってきて、スイスイと素早く編めるようになりますよ。

楽しんでください。


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2021年1月21日

泥棒に立ち向かう度胸

そういう度胸はないんです、私には。

父親から恫喝されて育ったせいか、他の子供達に対して偉そうにする割にはちょっと批判されたり言い返されたりすると、たちまち情緒不安定になってメソメソする子供でしたが、基本的に小心者なのです。

メンタルが弱くなってからは、悪いことをしている人を見ても、なかなか行動を起こせません。見て見ぬふりなんてしょっちゅうです。

以前、スーパーで万引きしている人を目撃した時も、「あなた何やっているんですか!」「バッグに隠したものを出しなさい!」なんて言えるはずもなくて、あの時はサービスカウンターへ「ものを盗んでいる人がいます」と報告しに行ったのでした。

今なら写真を撮ってから行くでしょう。

おばちゃんになって少し強くなったので、最近は不当な批判をされたりすると言い返すこともありますが、例えば電車の中で迷惑行為の人がいたりしても注意なんてできません。誰かが何か言ってくれるのをひたすら祈るのみ。それに加勢するくらいはできるかもしれませんが。

さて、

うちの夫はツールショップに勤めています。夫が勤めているツールショップは、何でもオーストラリア最大のツールショップなんだそうです。とにかく広いので、防犯カメラはいくつも取り付けられていますが、スタッフの目が届かない場所はいっぱいあって、万引き窃盗は日常茶飯事だそうです。

ある時、男が商品を服の中に隠したのをスタッフが目撃して責任者であるうちの夫に報告し、その男が店を出ようとしたら誰がドアを締めてどう対応するかを申し合わせておき、店を出ようとした男をうちの夫が止めたところ男が走って逃げようとしたので体当たりするはめになり、居直った男と取っ組み合いになって、警察を呼んだなんてこともありました。

防犯カメラのビデオを後で見せてもらったんですけど、

泥棒と取っ組み合いはちょっと…

現行犯で捕まえられない場合も多いそうです。つい先日は若いカップルに商品を盗まれました。防犯カメラにははっきりと写っていましたが、まんまとやられました。

広い店内でスタッフの人数だって限りがあるわけですからね。

ところが、一昨日、この泥棒カップルがまたやって来たんだそうです。入口近くにいたうちの夫は、このカップルの顔を覚えていました。男は、長いウェイビーヘアを後ろで束ねていて、一度見たらすぐに分かる特徴がありましたから。

女の方が先に店に入って来て、その後から入ってきた男が泥棒だと分かった夫は、男の肩だか腕だかをガシっと捕まえて、

「おい、オマエを店に入れるわけにはいかないぞ!さっさと出ていけ!」

と、ど突き飛ばして追い出しました。

商品棚の近くにいた女が慌てて後を追って店を出ていくのが防犯カメラのビデオに写っていました。防犯カメラって、店内の同じエリアを複数の角度から写しているんですね。

夫が勤めるツールショップ会社の本部には、全国の店舗の防犯カメラの映像を常時監視する専門の監視オペレーションルームと専門の監視スタッフがいるんだそうです。怪しい人がいると連絡が入るそうです。(スタッフが怠けていても連絡が入るし、あそこを片付けろとか掃除しろとか、そういう指示も来るそうです。まさに全てを監視しているわけです。)

夫は、こういう泥棒関係の出来事があると、後で防犯カメラのビデオを私達家族に見せて、武勇伝を披露してくれるんですけどね、

よくやるわ、あんなこと…

私にはできません。

私の妹の一人は、若い頃に警備会社に勤めていて、デパートで万引き犯を捕まえる仕事をしていましたが、

とても私にはできません。


うちの夫は、温厚な性格で泥棒に立ち向かいそうなタイプには見えないので、初めて泥棒と取っ組み合った時には、会社の人達が驚いたそうです。

夫は身体が大きいので、それも役に立っているそうです。

背も高いですけど、体重がスタッフの中で一番重たいと自負しているくらいですから。大きなクマのような身体つきなので、泥棒を「おい!こら!」と捕まえやすいということなんですけど。

私は身体も度胸も小さいですから。


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2021年1月20日

アラバマ州滞在の思い出

ついにトランプがホワイトハウスを去る日がやって来ましたね。

米国では、文字通りこの日を指折り数えて待っていた人が大勢いらっしゃることでしょう。

先日発生した連邦議会議事堂襲撃事件の後、あの国に根強く残る白人至上主義のことを考えながら、私はかつてアラバマ州に滞在した時のことを思い出しました。

9ヶ月ほどですが、アラバマ州とミシシッピ州との州堺に近い、住民のほとんどが白人という小さな町のK−12(キンダーから12年生まで)の学校で、日本語や日本のことを教えたのです。

その学校のハイスクールの世界史の先生がインターンシッププログラムを通して私を招いてくれまして、10月から学年末まで教えました。

この町での暮らしは、それまで私が米国に対して抱いていたイメージとはかけ離れていました。

最大の驚きは、その町が普通の日本人には想像もできないほどに「教会中心の社会」だったことです。飲酒を悪と考える住民により、この町があるカウンティでは酒類を販売することが禁止されていました。

私がある時、醤油で味付けした料理を振る舞った時に、醤油は穀類を発酵させて作ったソースだと言うと「発酵」という言葉でその場にいた人達は凍りつき、アルコール分が入っているのかと尋ねたくらいにアルコールは「禁忌」だったのです。

その町に滞在中、私が唯一口にしたアルコール飲料は、ホームステイをしていた家の「はみ出し者の息子」なる男性がくれた缶ビールでした。家族が集った何かの機会に会い、町での暮らしの感想を聞かれてアルコールが手に入らないことを話題にした私に、自分のトラックに持っていた缶ビールを一つくれたのです。

「どこで買ったの?」と聞くと、隣りのカウンティに行けば酒類は買えると教えてくれました。この町はどうかしていると首を振っていました。

小さな町なのにいくつもの教会があり、町の人々にとっては自分が属している教会のコミュニティーが大きな家族とも言える暮らしでした。人々は最低でも週に3日は教会に集まっていました。教会が社交の場なのでした。

この町では、ハイスクールを卒業したら婚約あるいは結婚するのが珍しくなかったですから、30歳近いのに未婚で婚約もしておらず、遠い国からやって来た私を哀れんで、結婚相手を紹介してくれる人もいたんですよ。

その相手というのが、幼い子供が3人もいる男性で、奥さんが家を出て行ってしまい、家のことをやってくれる女性を探しているという30歳代の男性でしたけどね、

ジョーダンじゃない…

教会に行かない人達は「教会に行かない人」と呼ばれていました。私は「教会に行かない人」でしたから、度々招待を受けました。付き合い上断れず2回ほど行きましたけど、皆さんののめり込みようが普通じゃあないもんですから気味が悪くなり、その後は「私は仏教徒だから教会には行きません」と嘘をつくことにしていました。

「教会に行かない人」で30歳近いのに未婚で婚約もしていない私は、同じく「教会に行かない人」であったある先生に食事に招待されたことがありました。彼女は50歳を超えても未婚なのでした。

彼女の家に行くと、学校で顔を見たことがあった数学の先生が来ていました。彼女も30歳を過ぎても未婚で「教会に行かない人」なのでした。

晩ご飯をいただいた後、3人でドミノゲームをして遊んだのを覚えています。

その町の人々が信心深く教会に週3日も通っていることを話題にすると、「そういう人達もいる」と言う彼女達は、「なぜ教会に行かないのか」と言う私の質問に答えてはくれませんでした。ただ自分達は行かないのだと言うだけで。

今思いかえすと、彼女達は同性愛者だったのだと思います。もしかしたら、恋愛関係にあったのかもしれません。

しかし、そういうことは決して話題にしてはいけないという雰囲気がありました。私に缶ビールをくれた問題息子も「教会に行かない人」でしたが、家族の中で彼は「一家の恥」のような存在であり、話題にするのはタブーのようでした。

教会に通うことが当たり前の社会で育ちながら、教会に行かないことを選択した人達には理由があったはずです。

その町では話題にしてはいけないことがいろいろあるようで、会話がそうした話題に触れそうになると、人々は気まずそうな表情をして言葉を濁すのでした。

公共の交通手段がないその町で、車を持っていない私は自分ではどこへも行けず、自転車でスーパーへ行くくらいが楽しみで、他にすることがないので授業の準備に明け暮れていましたから、人々からますます哀れむような目で見られたものです。

町で唯一のアジア人でしたから、どこへ行ってもジロジロ見られましたしね。

息苦しい日々でしたが、差別は受けませんでした。

他に衝撃だったのは、町から少し外れた辺りに数多くあった小さな粗末な家やトレーラー型のモービルホームです。非常に貧しい人々が大勢いました。そして自分達の貧しさや不遇を黒人や移民が仕事を奪うせいだと考えている人も多かったのです。

それから、やはり銃には驚かされました。

町で唯一のビデオショップは、店舗の半分が銃器販売店になっていて、ビデオショップとの間に仕切りはありませんでした。カウンターのガラスケースや後ろの壁に、拳銃やショットガンやライフルやもっと凄いのが普通に展示されて売られていました。

拳銃を持っている人も多くて、ある時晩ご飯をご馳走していただいた家では、食後の娯楽は裏庭での拳銃撃ちだったんですよ。私は丁重にお断りしましたけど。ビールを飲むのは悪でも拳銃はいいのかと、疑問に思ったことを覚えています。

貧しい家庭の子供達は、ハイスクールを卒業すると軍隊に入るしか選択肢がないような状況でした。それほど貧しくはなくても、軍隊に入る若者は大変多かったです。ハイスクールの卒業式でもその影響が見られました。湾岸戦争が始まる前、町の街路樹に黄色いリボンが結ばれていたことも記憶に残っています。

家族の誰かが戦争に行っていて、無事に帰って来ることを祈るというようなことが、日々の暮らしの一部になっているというのも、私には経験がなかったことでした。

知り合いになった学校の先生の家族と一緒に、マルチまがい商法として話題だったアムウェイの全国大会に参加したこともありますよ。テキサス州のどこかの街の巨大ホテルでその大会は開かれました。アムウェイで成功することを夢見るその先生夫婦が、大会参加中に子守りをするという役目で一緒に行ったのですが、それはもうまるでカルトの大集会のようでした。

町の近くで竜巻が発生したりもしました。真っ昼間に暗くなって地響きのような轟音が続きまして、あれは非常に怖い経験でした。学校では竜巻の避難訓練もしていました。

私をその学校に招いてくれた世界史の先生の家にもホームステイしましたが、その先生のご主人がカントリー歌手のタミー・ワイネットの従兄弟だったので、タミー・ワイネットがその町でコンサートを開いた時にパーティーで会いました。

タミー・ワイネットのことは彼女の顔すら覚えていませんが、マネージャーでもあったご主人のピカピカに磨き上げられたネイルのことは忘れられません。男性で手指の爪をあのように完璧に整えてピカピカにしている人を、私はあのタミー・ワイネットのご主人以外に見たことがありません。

いろいろと興味深い経験をしました。

あれから30年以上が経ちましたが、アラバマ州のあの町は、どのように変わっているのでしょうか。もう一度訪れてみたいという気持ちは全くありませんがね。


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2021年1月19日

8年ぶりに見た海とフィッシュ&チップスの店

「日曜日と月曜日の2日連続で休みをもらったからどこかに行きたい?」と夫が聞いてくれたのは、一週間ほど前のことでした。

私は「海が見えるところに行きたい」と即答しました。

その時には、夫と私の二人で1泊2日の小旅行という話になりかけたのですけど、休み2日を旅行に使ったりすると絶対に夫が疲れ果てて後が困ると心配だったので、フランクストンに行って、夫が勤めるツールショップのスタッフA君のお父さんがやっているテイクアウトの店でスブラキを買って食べようと話したのですが。

休日1日目の日曜日、夫は娘の運転の練習に付き合って半日つぶして、その後は昼寝。夕方起きてきて深夜までテレビ視聴。

月曜日は朝寝、そして遅い朝ご飯を食べた後は、また昼寝。

お出かけの件はどうなってるんだ!

ちょっと腹は立ったけど、いつものことだし、疲れているんだろうから仕方がないと、私はあきらめていたんです。先週マニックモードでテンション上がりっぱなしでしたから、そのつけが来ているだろうと思ったし、お天気も悪かったですからね。

ところが、お昼ごろになってお日様が顔を見せ、青空が広がりまして、私は思わず「ああどこかに行きたい!」と独り言を言っていたんです。

そうしたら、昼寝をしていたはずの夫が起きて来て「海を見に行こうか」と誘ってくれました。どうやら、うちの娘が「お母さんを海に連れて行ってあげなさい」と言ったようです。

夫は「どこの海に行きたいんだ」と尋ねましたが、私は海が見えるところならどこでも良かったです。そして、A君のお父さんのお店が午後3時から開いていると分かったので、お店があるフランクストンのビーチでいいよと言ったのでございます。

我が家からフランクストンまでは高速を使って30分くらいですから、そのくらいの距離なら夫も疲れないだろうと思ったのですが、夫はサーフビーチに連れて行ってくれると言いました。

サーフビーチに行って、その後でフランクストンのA君のお父さんのお店に寄ってスブラキを食べてから帰ろうという話でした。

サーフビーチというのがどこのことを言っているのか私にはよく分からなかったのですけど、夫が連れて行ってくれたのはモーニントン半島の先端でした。

メルボルンのあるポートフィリップ湾の東側を囲むような形なのがモーニントン半島で、その先端部分の端には「ネピアン砦(Fort Nepean)」の跡があるのですけど、そんな所に歩いていくような服装ではなかったので、かつて牛の検疫桟橋があったという砂浜まで歩いて行きました。


その頃にはすっかり青空が広がって気温も上がり、素晴らしい天気になっており、ポートフィリップ湾の眺めも最高でした。


ここから半島の先端を望むと、対岸のクイーンズクリフが目と鼻の先で、ポートフィリップ湾の入り口がいかに狭いかがよく分かります。下の写真でピンク色の線を描いたところがポートフィリップ湾の入口です。

潮の満ち引きに応じて、激流となる場所です。


内海であるポートフィリップ湾側の海は、非常に穏やかでした。

その後、外海であるバス海峡側にも行ってみました。夫が言っていたサーフビーチというのは、こちら側のビーチのことでした。

モーニントン半島の先端部分は細いでの、簡単に反対側に出られます。

そして、驚きましたよ、その海の波の荒々しさに。しかも強風が半端ないし、水が冷たい。


それなのに、大勢の若い子達が、女の子達はビキニで、海に入って遊んでいるんです。

遊泳禁止になっていないのが不思議なほどの強風でした。ライフガードの人達が目を光らせてましたけど。あの波の中を沖へ泳いで出ていくなんて、私には自殺行為のように見えました。

ソレントという観光客にも人気のおしゃれな街でコーヒーでも飲もうと思ったのですが、すごい人出でして、車を停める場所やカフェを探しているうちに街を通り過ぎてしまったので、コーヒーはあきらめてそのままフランクストンに向かいました。

A君のお父さんのお店ですが、フィッシュ&チップスの店です。スブラキやハンバーガー、揚げ物のセットメニューもありました。

以前に一度会ったことがあるだけですから、忙しく立ち働いているお父さんもお母さんもうちの夫には気が付かない様子でして、夫も名乗りませんからただのお客の一人という扱いだったのですが、お父さんとお母さんは時々夫をちらっと見ながら何やら話をしていました。

彼らは、ギリシャ語で「あの人(A君の)会社の人じゃない?」「以前お店に来たことがあったあの人じゃない?」と、話していたんですって。

しばらくして、お母さんの方が「あのう、もしかして、あなたはナントカショップの…」とお尋ねになりまして、それでやっと夫はマスクを取って顔を見せて挨拶をし、会話が始まったのでございました。

なんでもA君はまだ25歳で、しょっちゅうお父さんとお母さんに仕事の話をするのだそうですが、うちの夫がこう言った、ああ言ったと、よくうちの夫のことを話し、夫に全幅の信頼を寄せていることを知っているので、お父さんお母さんも夫に良い印象を持っているわけです。

夫もまた働き者で真面目に頑張るA君のことを褒め、「あなた方はいい息子さんをお持ちです」と言いましたら、「ええ私達はラッキーです、良い息子です」とおっしゃいましたので、聞いていてとても気持ちが良かったです。

お店はもう隅から隅までピッカピカで、あんなにきれいなフィッシュ&チップスのお店は見たことがないというレベルの掃除の行き届きぶりでして、私は大変感心しました。

肝心のお味の方はと言いますと、スブラキはパンが美味しくてラム肉がたっぷり入っていたのは良かったけど、ラム肉の味付けに塩をふりかけすぎで、ヨーグルトソースも塩からくて、それも血圧が心配になるレベルでして、ポテトフライとホタテのフライにもちょっと塩をふりかけすぎていましたから、「塩をし過ぎ」というのが私の評価でございます。

前回「大満足の美味しさ!」と絶賛していたうちの夫は、塩味のことはよく分からないそうです。味音痴ですからね。


さて、お疲れの夫は、運転中もあくびを連発していましたが、5時前に帰宅してすぐに居間のソファに横になったまま爆睡していました。9時頃に起きて寝室に行ってから、すぐにまたイビキをかいていましたから、本当は昼寝をして過ごしたかったんでしょう。

それでも連れて行ってくれて感謝しています。連れて行ってあげろと言ってくれた娘にも感謝していますよ。

だって、わずか5時間足らずのお出かけでしたけどね、こういう「旅行」と呼べるようなお出かけはゴールドコーストに行って以来だったんですから。ゴールドコーストに行ったのは8年以上前ですよ。

週休一日の夫ですが、毎年長期休暇はもらっていて、ハミルトン島やサンシャインコーストやバイロンベイやウィルソンズプロムなどへ、父親が旅行費用全員分全額負担の旅行を楽しんでいるんですからね。

私一人だけがどこへも行けていなかったんですから。8年以上も!


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