2011年9月28日

レインフォレスト

先日リヴィングストン家のピクニックでダンデノン丘陵を訪れた。ダンデノンは我が家から近くて、2階の窓から山並みはよく見えるし、ピクニックをしたシャーブルックの森までは車で30分ほどしかかからない。メルボルンの中心からなら、東へ約1時間ほどの距離であろう。ピクニックに行ったその日は、大変天気も良く、サッサフラスという集落辺りは観光客で大変な混雑で、狭い道路は大渋滞であった。

シャーブルックの森は自然公園になっているのだが、この日は森の中を散歩する人も多かった。ダンデノンやヤラバレーの丘陵地は、メルボルン近郊に住む人々が週末に出かける場所として大変人気がある。ほとんどの人たちが出かけるのは、ワイナリーや観光客向けのおしゃれなカフェやショップが並ぶ小さな集落だが、この丘陵地域に広がるレインフォレストと呼ばれる森も、自然に関心のある人達には大変人気があるのだ。

この辺りのレインフォレストは、植生系もクイーンズランドの熱帯雨林とは異なる独特の冷温帯雨林である。ヴィクトリア州の気候は四季のはっきりした温帯気候だが、レインフォレストの広がる地域は丘陵地であるから気候は冷涼で、冬には雪が降ることもある。降雨量が著しく多いわけではないが、乾燥大陸オーストラリアにあっては、雨がよく降る地域ではある。

ダンデノンやヤラバレーのレインフォレストは、非常に高く真っすぐにそびえ立つユーカリの林と低く生い茂るツリーファーン(Tree Fern)と呼ばれるシダ植物のコントラストが、時に息をのむほど美しい。ピクニックに行ったシャーブルックの森は自然公園になっているので、道案内が随所に設けられており、森の中で迷子になって行方不明になるようなことは無い。安心してブッシュウォークを楽しむことができる。

この森は、ライアーバード(Lyrebird) の生息地でもあるので、運が良ければライアーバードに会えるかもしれない。ライアーバートは、日本名をコトドリという。長い尾羽が竪琴に似ていることに由来するそうである。ライアーバードは、オーストラリアの固有種で、10セント硬貨に描かれている鳥だが、オーストラリアの10セント硬貨など見たことが無いという方も多いと思うので、ぜひインターネットで調べてみてください。

私は、以前ヤラバレーのバジャーウィアー公園の森で野生のライアーバードを見たことがある。大きな鳥では無かったし、色も全体が茶色で地味な印象の鳥であったが、その長く優雅な飾り尾羽が何とも美しくて、しばらく息をのんで見とれたことを思い出す。こうしたレインフォレストの森には、クッカバーラ(ワライカワセミ)や色とりどりのオウムが住んでいる。私の両親などは、ペットショップか動物園でしかお目にかかれないような変わった鳥が自然にすぐ近くを飛んでいるのを見て、すっかりたまげて鳥の写真ばかり撮っていた。

ライアーバード(Wikipediaより)

シャーブルックの森で何枚か写真を撮って来たのでご覧ください。シャーブルックの森の奥にウォーターフォール(滝)があるというので、 息子と娘と三人で水しぶきのけぶる滝を期待しながら道案内に従って森を歩き、たどり着いたウォーターフォールはこれです。「えっ??」言葉を失いました。

シャーブルックの森のウォーターフォール
(総合落差約1.6メートル)





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2011年9月27日

リヴィングストン家のピクニック

私の夫スティーブの祖父セオ・リヴィングストンは、13年前に心臓発作で亡くなった。もしもまだ元気なら今年で88歳になるはずだ。セオの妻、つまりスティーブの祖母のモニカは、セオが亡くなるよりも2年早く亡くなっている。セオとモニカの夫婦には、4人の娘がいた。上から順に、ジョーン、グレニス、イヴォンヌ、そしてロレーンの四人姉妹で、2番目のグレニスがスティーブの母親である。

ルイーザ・オルコットの「若草物語」のマーチ家のように、このリヴィングストン家は強い絆で結ばれた家族であった。セオは、蒸気機関車の火室に石炭を投炭する仕事をしていたが、その後運転士となった。蒸気機関車が電車となってからも運転士として働いたが、四人の娘を抱えた生活は決して楽ではなかった。 夫の母親グレニスは、家族がどんなに貧しく生活が大変だったか、折に触れて話してくれる。それは、ちょっと自慢話のように聞こえるので、貧しかった頃の話が始まると、聞いている我々は、(ほうら、また始まったぞ!)と互いに目配せしながら聞くのだが、6人家族でいかにして小さな一羽のローストチキンを分け合ったか、いかにして冬の寒さを耐え忍んだか、娘4人がどのように子供部屋を共有していたか、面白おかしく話してくれるのだ。

両親が亡くなった後、四人姉妹の団結は以前よりも強くなったように見える。何かことあるごとに、あるいは理由など無くても、しょっ中それぞれの家に集まって一緒に食事をしたり、一緒に旅行したりしている。今では四人ともリタイアしており、一番上のジョーンがパートタイムで看護士の仕事をしている意外は時間がたっぷりあるので、集まりやすいのもあるのだろう。

9月25日は、セオの88歳の誕生日。天気も良いことだし、ピクニックでもしようということになった。一人だけ遠くはなれたキャンベラに住んでいる3番目のイヴォンヌもはるばるやって来た。夫のフィルと末の娘も一緒に。それならみんなに声を掛けようということなって、娘や息子たち、その家族もピクニックに誘うと、遥かクイーンズランドの北の果てとか海外に住んでいるメンバーは無理としても、メルボルン近郊に住んでいるメンバーは全員集まった。

集まった場所は、メルボルンから約1時間ほど東にあるダンデノン丘陵のシャーブルックの森。ここは自然公園になっていて、森の周囲にはピクニック場がいくつも整備されている。こうしたピクニック場にあるのは、バーベキュー施設とトイレとピクニックテーブル。バーベキュー施設は屋根付きの場合もある。ゴミ箱は、設置されていない場合が多い。その場合、ゴミは当然自分で持ち帰る。ピクニック場のバーベキュー施設には、オーストラリアに来て間もない頃にはいつも感心させられていた。薪タイプとガスタイプがあり、いずれも無料で使用できる。予約制ではないので、場所取りには少し早めの到着を要する。バーベキュー施設は、今まで汚れていて使えなかったということが一度も無いので、誰かが掃除しているのかと思っていたがそういうことは無いらしい。もちろんピクニック場の定期的な点検整備は管理する自治体なり団体が行っているが、バーベキュー施設の掃除は、使った人がしているのである。こういうのに慣れているオーストラリ人は、掃除のための新聞紙や油や道具類をちゃんとピクニックに持参してくる。

この日、私達家族が到着した時には、すでにグレニスのパートナーであるロジャーとイヴォンヌの夫のフィルが、バーベキューの準備を始めていた。ガスバーナーをつけ、鉄板を熱して油とペーパータオルで汚れを取り(といっても汚れているようには見えないが)、肉やソーセージを焼く準備をするのだ。ガスタイプではなく薪タイプの場合は、やや手がかかる。使用する薪や木切れは既に準備されているので、森に入って薪を集めてくるようなことは不要だ。バーベキューは男の仕事という暗黙の了解があるようで、いつもピクニック場でバーベキューの準備に取り組むのは男性陣であり、肉を焼くのも、使用後の掃除をするのも男性陣である。


この日集合したリヴィングストン家一族のメンバーは、総勢22人。昨年のクリスマスに比べると小規模な集まりだったが、それでも皆がサラダ類、パン類、デザート類とそれぞれ持参してくるので、使った3つのピクニックテーブルは、置き場が無いほど食べ物で埋まった。



ワインを飲みながらたらふく食べて、おしゃべりに花を咲かせ、最後に天国のセオへ向けて「ハッピーバースデー」を合唱した。空は春らしいパステルブルーに晴れ、リヴィングストン一族の皆は誰も健康そうで、気持ちのよい日曜日の午後はあっという間に過ぎていった。


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2011年9月23日

日に焼かない日焼け

先日スーパーに買い物に行った時、支払いのレジのところに無料マガジンが置いてあったので1冊もらって帰って来た。春の食材を使ったレシピなどが満載で興味深くページをめくっていたところ、ある広告に目がとまった。Le Tanというブランドの日焼け色スプレーの広告で、「無料サンプルプレゼント中!」というフレーズが赤色で目を引いている。小麦色に日焼けした女性の手足の写真がレイアウトされている。「春だからなあ!今年もまたそういう季節がやって来たんだよ!」と、私はちょっと笑った。

この商品の名前は「Fast Tan」という。パッケージデザインには、「インスタント、自然な色、ビタミンE配合」という言葉も見える。これは、日焼け促進ローションとかそういったものではなく、茶色い液体のスプレーである。Tan(タン)とは日焼けとか日焼けの色という意味で、この商品をよくシェイクして肌に吹き付けると、たちどころに日焼けしたような小麦色にすることが出るというものである。ビューティーサロンに行かなくても自分で簡単にできますよと、よく宣伝している。フェイクタン(ニセモノの日焼け)と一般的に呼ばれているようだ。

スーパーのスキンケア商品コーナーに行ってみると、日焼け止め商品以上の棚スペースを様々なフェイクタン商品が占拠している。スプレーだけではない。ムース状のものもあるし、パウダリーファンデーションのようにスポンジでつける固形タイプやブラシでつけるパウダータイプやチューブに入ったクリームタイプなどなど、フェイクタン商品のバラエティーは多様だ。街でも、スプレータンとかフェイクタンというサインを出したビューティーサロンを至る所で見かけるので、この「ニセモノの日焼け」は、よほどの需要があるのだろう。



確かに、肌を露出する季節になると、明らかにフェイク(ニセモノ)と思われる肌色をした女の子たちをよく見かける。小麦色というよりもニンジン色化した子もいるし、色がところどころ落ちてきてムラになっている子も稀ではない。きれいな白い肌をどうしてあんなものを吹き付けてまでして、茶色やニンジン色にしたいのだろうかと私は理解に苦しむ。

このフェイクタンは、ただ茶色の染料を吹き付けているものとばかり思っていたが、そうでもないらしい。特にビューティーサロンなどでエアブラシの機械を使ってスプレータンの資格を持った人が使う茶色い液体には、肌の角質部分のたんぱく質と化学反応を起こし小麦色にする化学物質が含まれているのだそうな。古くなった角質は自然に取れて行くので、科学反応で小麦色になった肌も1週間もすれば元に戻るということだが、石けんで洗えばすぐ元に戻りますと宣伝しているような商品は、おおむね一日限りの「ニセモノ日焼け」である。

私の娘は、生まれつき浅黒い肌色をしている。日に当たると赤くならず一気に茶色くなる、メラニン色素が多い肌である。本人は、もう少し白かったら良かったのにと思っているようだが、彼女の肌を「美しいオリーブの肌」だとうらやましがる人が大勢いる。(浅黒いと言うと聞こえが悪い。あの色のことをオリーブというのか!)透けるように白い彼女たちの肌こそ美しいじゃあないかと私は思うが、彼女たちの小麦色の肌へのあこがれは強い。

ところが、ここはオーストラリアのメルボルン。私たちの空には、ほぼ常時でっかいオゾンホールが口を開けていて皮膚がんを引き起こす有害紫外線が降り注いでいるので、ホンモノの日焼けは自殺行為に等しい。その点、太陽光によらないニセモノの日焼けは安全だし、メラニン色素を刺激することが無いためシミにもならないという。ああ、今年もまた、多くの女の子たちがニセモノ日焼け商品におこづかいをつぎ込んで、茶色やニンジン色になることだろう。


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2011年9月21日

カコスィ?ドブロドブロ!

私にはマケドニア人の友人がいる。以前住んでいた家の隣の家に住んでいた老夫婦だ。夫のヴィクターは87歳、妻のジョイスは80歳。息子が4人いるが誰の家族とも同居せず、今も二人で暮らしている。年をとってきて掃除や庭の管理が大変すぎると言って住んでいた大きな家を売り、昨年小さめな新築の家を買って引っ越した。

お隣同士だった頃は、 晩ご飯のお裾分けをしたりしてもらったり、オーストラリアに家族がいない私には、まるで実家に戻るような気分で気軽に行ける家だった。 行けば必ず何か食べさせもらい、帰りには(といっても隣の家に帰るのだが)庭でとれた野菜(主に二人がチリと呼んできる巨大なシシトウのような辛いピーマン)や自家製オリーブや漬け物や焼きたてパンやお菓子などをお土産にもらって帰るのだった。

二人は、家ではマケドニア語で会話しているので、私もそれを聞いているうちに自然とマケドニア語を覚えていくことになった。
カコスィ?(元気?) ドブロドブロ!(元気元気!)
ブラゴーダラム(ありがとう)
ナズラビエン(かんぱーい)
ドグレダニェ(さよなら)

マケドニア語にしてもマケドニア語とほとんどそっくりだというブルガリア語にしても、スラブ系言語の音というのは、私の耳にはドロドロズロズロと聞こえて真似るのが難しい。ところが面白いことに、私が子供たちと日本語で会話しているのをしょっちゅう聞いていたジョイスは、耳が良いのか次々と日本語の単語を話してみせた。「ああ、この歳になって日本語を習うとは思わなかった」とうれしそうに私たちの日本語を真似していた。ジョイスは、マケドニア語、英語、ギリシャ語の3カ国語が話せる。ヴィクターもそうだと思うが、決してギリシャ語は話さない。憎んでいるからだ。

二人はマケドニア出身のマケドニア人であると 口を酸っぱくして言う。幼い頃に村はギリシャ人に占領され、ギリシャ語を強要されてマケドニア語を使うことを禁じられた。現在でも、二人が生まれ育った村はギリシャの領土である。貧しい村での生活はギリシャによる占領後、さらに苦難に満ちたものとなった。特にヴィクターは、よほど苦しい経験をしたと見えて、今でもギリシャへの強い憎しみを抱いているのだ。

ヴィクターは、最近90が近くなりちょっとぼけてきたと自分でよく言うのだが、昨年交通事故を起こしてしまった。車が壊れて乗れなくなった。家を買ったので新しい車を買うお金はないと言い、何ヶ月も車の無い生活を送ったら増々健康になった。というのは、日々の買い物からちょっとしたお出かけまで、バスを使うか歩くしか方法がなかったからだ。バスを使うにしても、家からバス停までは歩かなければならないし、バスを降りてから目的地まで歩かなければならないわけだから、特に買い物担当だったヴィクターはとにかく歩いた。買い物袋を手にして。すると、余分な脂肪が落ちて体が締まり、食欲が出てよく食べるし、以前に増して体が健康になったのだという。実際、ヴィクターは、とても90歳近いおじいさんには見えない。


ジョイスは、本当の名前をジバンカという。英語でJoyという意味だそうだ。お腹の調子がずっと悪く、心配でたまらないので医者に通い続けたが悪い所は見つからず、お腹の調子を悪くすると自分が思う食べ物を避けて健康な食生活を心がけたところ、こちらもまた余分な脂肪が落ちて体が軽くなり、とても健康そうになった。


いつまでも元気でいてほしい、私の大切な友達だ。


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2011年9月20日

電車の中は多民族社会の縮図

多文化多民族の街での暮らしについて書こうというのがブログを始めたきっかけなのだから、やはり1回目はこのテーマについて書こうと思う。

メルボルンの多民族多文化性を一番実感するのは、なんといっても電車に乗ったときである。先週、ヘアカットのため自宅から1時間もかかるなじみの美容院に出かけたのだが、この美容院があるサウスヤラという街は交通量が多くて駐車が容易ではなく、私のように車の運転に自信が無い臆病ドライバーは、まず車で行くという選択肢は無い。電車を利用するほうがよっぽど楽で安上がりなのだ。

私の家から車で5分のリングウッド駅からメルボルンへは、2路線がある。メルボルンの悪評高い電車システムについては、またいつか書こうと思うので、ここでは詳しくは書かない。私が乗った電車は、朝のラッシュアワーをちょっとすぎた時間帯だったのでさほど込んでおらず、空いた席を見つけることができた。

さっそく、いつものように車内人間観察を始める私。

すぐ前に座っていたのは、大学生と思われるきれいな青い眼の白人青年とインド人のおじさん。この二人が、ずっと実に楽しそうにおしゃべりをしている。聞いていると、おじさんも大学で環境問題に関係する勉強を始めたらしく、二人は学校の話で盛り上がっている。

すると、私の直ぐ後ろに座っていた人の携帯が鳴った。普通のオーストラリア人と思っていたが、電話で話し始めた言葉は、私には理解できない言葉だった。意味は分からなくても、たいていの言葉は何語なのか大体見当が付くのだが、その人の言葉はヨーロッパ言語であろうと言うことしか分からなかった。

通路の向こうでは、中国系の女の子が二人中国語でおしゃべりをしている。次の駅で乗ってきた人に何か英語で話しかけられて、彼女達はアクセントの無いきれいな英語で返答した。

アフリカ系の女性が二人の幼い女の子を連れて乗り込んできた。私は、その女の子達の髪の毛に目を奪われてしまった。細く縮れた髪の毛を、信じがたい繊細さで編みこんであったのだ。カラフルなゴムで留めてある。一体どのようにして、その長くない縮れた髪の毛をあのように美しく編み組むのだろうか。私はしばらく見とれていた。

大学に近い駅で、前に座っていた青い瞳の青年が降りていった。降りていく前に、インド人のおじさんに、「乗り合わせてラッキーだった。あなたと話ができて楽しかったです。Have a great day!」と丁寧に挨拶をして、かたい握手。私は、その様子を見てとても愉快な気分になった。

メルボルンが近づくにつれて、多文化多民族の度合いがさらに増していく。

私がメルボルンで暮らし始めたころには、すでにベトナムやカンボジアなどの東南アジア系の人が大勢いたが、最近ミャンマーやラオスなどからの移民をよく見かける。この人たちの話す言葉は独特の音があって興味深い。また、私の住んできるリングウッドの街では、アフリカ系の人が大変増えた。紛争や弾圧、飢餓など様々な苦難を逃れて、難民としてオーストラリアへ移り住んできた人がほとんどだ。

朝の電車は急行で、サウスヤラには30分で着いてしまった。
「えっ、もう着いちゃった?」
この日、私は電車を降りるのがちょっと残念な気分だった。


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