2021年1月20日

アラバマ州滞在の思い出

ついにトランプがホワイトハウスを去る日がやって来ましたね。

米国では、文字通りこの日を指折り数えて待っていた人が大勢いらっしゃることでしょう。

先日発生した連邦議会議事堂襲撃事件の後、あの国に根強く残る白人至上主義のことを考えながら、私はかつてアラバマ州に滞在した時のことを思い出しました。

9ヶ月ほどですが、アラバマ州とミシシッピ州との州堺に近い、住民のほとんどが白人という小さな町のK−12(キンダーから12年生まで)の学校で、日本語や日本のことを教えたのです。

その学校のハイスクールの世界史の先生がインターンシッププログラムを通して私を招いてくれまして、10月から学年末まで教えました。

この町での暮らしは、それまで私が米国に対して抱いていたイメージとはかけ離れていました。

最大の驚きは、その町が普通の日本人には想像もできないほどに「教会中心の社会」だったことです。飲酒を悪と考える住民により、この町があるカウンティでは酒類を販売することが禁止されていました。

私がある時、醤油で味付けした料理を振る舞った時に、醤油は穀類を発酵させて作ったソースだと言うと「発酵」という言葉でその場にいた人達は凍りつき、アルコール分が入っているのかと尋ねたくらいにアルコールは「禁忌」だったのです。

その町に滞在中、私が唯一口にしたアルコール飲料は、ホームステイをしていた家の「はみ出し者の息子」なる男性がくれた缶ビールでした。家族が集った何かの機会に会い、町での暮らしの感想を聞かれてアルコールが手に入らないことを話題にした私に、自分のトラックに持っていた缶ビールを一つくれたのです。

「どこで買ったの?」と聞くと、隣りのカウンティに行けば酒類は買えると教えてくれました。この町はどうかしていると首を振っていました。

小さな町なのにいくつもの教会があり、町の人々にとっては自分が属している教会のコミュニティーが大きな家族とも言える暮らしでした。人々は最低でも週に3日は教会に集まっていました。教会が社交の場なのでした。

この町では、ハイスクールを卒業したら婚約あるいは結婚するのが珍しくなかったですから、30歳近いのに未婚で婚約もしておらず、遠い国からやって来た私を哀れんで、結婚相手を紹介してくれる人もいたんですよ。

その相手というのが、幼い子供が3人もいる男性で、奥さんが家を出て行ってしまい、家のことをやってくれる女性を探しているという30歳代の男性でしたけどね、

ジョーダンじゃない…

教会に行かない人達は「教会に行かない人」と呼ばれていました。私は「教会に行かない人」でしたから、度々招待を受けました。付き合い上断れず2回ほど行きましたけど、皆さんののめり込みようが普通じゃあないもんですから気味が悪くなり、その後は「私は仏教徒だから教会には行きません」と嘘をつくことにしていました。

「教会に行かない人」で30歳近いのに未婚で婚約もしていない私は、同じく「教会に行かない人」であったある先生に食事に招待されたことがありました。彼女は50歳を超えても未婚なのでした。

彼女の家に行くと、学校で顔を見たことがあった数学の先生が来ていました。彼女も30歳を過ぎても未婚で「教会に行かない人」なのでした。

晩ご飯をいただいた後、3人でドミノゲームをして遊んだのを覚えています。

その町の人々が信心深く教会に週3日も通っていることを話題にすると、「そういう人達もいる」と言う彼女達は、「なぜ教会に行かないのか」と言う私の質問に答えてはくれませんでした。ただ自分達は行かないのだと言うだけで。

今思いかえすと、彼女達は同性愛者だったのだと思います。もしかしたら、恋愛関係にあったのかもしれません。

しかし、そういうことは決して話題にしてはいけないという雰囲気がありました。私に缶ビールをくれた問題息子も「教会に行かない人」でしたが、家族の中で彼は「一家の恥」のような存在であり、話題にするのはタブーのようでした。

教会に通うことが当たり前の社会で育ちながら、教会に行かないことを選択した人達には理由があったはずです。

その町では話題にしてはいけないことがいろいろあるようで、会話がそうした話題に触れそうになると、人々は気まずそうな表情をして言葉を濁すのでした。

公共の交通手段がないその町で、車を持っていない私は自分ではどこへも行けず、自転車でスーパーへ行くくらいが楽しみで、他にすることがないので授業の準備に明け暮れていましたから、人々からますます哀れむような目で見られたものです。

町で唯一のアジア人でしたから、どこへ行ってもジロジロ見られましたしね。

息苦しい日々でしたが、差別は受けませんでした。

他に衝撃だったのは、町から少し外れた辺りに数多くあった小さな粗末な家やトレーラー型のモービルホームです。非常に貧しい人々が大勢いました。そして自分達の貧しさや不遇を黒人や移民が仕事を奪うせいだと考えている人も多かったのです。

それから、やはり銃には驚かされました。

町で唯一のビデオショップは、店舗の半分が銃器販売店になっていて、ビデオショップとの間に仕切りはありませんでした。カウンターのガラスケースや後ろの壁に、拳銃やショットガンやライフルやもっと凄いのが普通に展示されて売られていました。

拳銃を持っている人も多くて、ある時晩ご飯をご馳走していただいた家では、食後の娯楽は裏庭での拳銃撃ちだったんですよ。私は丁重にお断りしましたけど。ビールを飲むのは悪でも拳銃はいいのかと、疑問に思ったことを覚えています。

貧しい家庭の子供達は、ハイスクールを卒業すると軍隊に入るしか選択肢がないような状況でした。それほど貧しくはなくても、軍隊に入る若者は大変多かったです。ハイスクールの卒業式でもその影響が見られました。湾岸戦争が始まる前、町の街路樹に黄色いリボンが結ばれていたことも記憶に残っています。

家族の誰かが戦争に行っていて、無事に帰って来ることを祈るというようなことが、日々の暮らしの一部になっているというのも、私には経験がなかったことでした。

知り合いになった学校の先生の家族と一緒に、マルチまがい商法として話題だったアムウェイの全国大会に参加したこともありますよ。テキサス州のどこかの街の巨大ホテルでその大会は開かれました。アムウェイで成功することを夢見るその先生夫婦が、大会参加中に子守りをするという役目で一緒に行ったのですが、それはもうまるでカルトの大集会のようでした。

町の近くで竜巻が発生したりもしました。真っ昼間に暗くなって地響きのような轟音が続きまして、あれは非常に怖い経験でした。学校では竜巻の避難訓練もしていました。

私をその学校に招いてくれた世界史の先生の家にもホームステイしましたが、その先生のご主人がカントリー歌手のタミー・ワイネットの従兄弟だったので、タミー・ワイネットがその町でコンサートを開いた時にパーティーで会いました。

タミー・ワイネットのことは彼女の顔すら覚えていませんが、マネージャーでもあったご主人のピカピカに磨き上げられたネイルのことは忘れられません。男性で手指の爪をあのように完璧に整えてピカピカにしている人を、私はあのタミー・ワイネットのご主人以外に見たことがありません。

いろいろと興味深い経験をしました。

あれから30年以上が経ちましたが、アラバマ州のあの町は、どのように変わっているのでしょうか。もう一度訪れてみたいという気持ちは全くありませんがね。


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