2011年10月31日

ハロウィーン

ハロウィーン文化が根付いていないオーストラリア。私がこちらに住み始めた頃は、あんなのはアメリカ人のすること!と鼻であしらわれていたハロウィーンだが、ここ数年、ハロウィーンを楽しもうという人が増えて来ている。

特に子供達にとってあんな楽しいイベントは他にはない。クリスマスはプレゼントがもらえるし、イースターはエッグハントが楽しいが、ハロウィーンにはかなわない!

まず、仮装するっていうのがワクワクする。しかも、気持ち悪い系、恐ろしげ系のキャラクターとなるとたまらない。人間誰しも仮装願望のようなものがあるもので、子供だけでなく、大人だって、仮装するのってとても楽しいものだ。

年々、ハロウィーングッズを売る店も増えている。今日買い物に行ったおなじみのスーパー Coles でも、店員さん達が魔女やお化けに仮装していた。店長の女性は、オズの魔法使いに出てくるような緑の魔女なっていた。恐ろしげなメークもばっちりと決め、すごい迫力であった。みんなとても楽しんでいる様子。

私の娘のサチは、幼い頃からドレスアップ(仮装)が大好きで、小学校のドレスアップデーでは並々ならぬ努力を注いで来た。4年前からハロウィーンも始めたのだが、オーストラリアで「トリック・オア・トリート」をするには、二つの問題があるのだ。

まず、この10月の終わりという時期が問題。どんどん日が長くなり、夏に向かって気温が上がってくる時期であるから、夏時間も手伝って、夜の7時を過ぎてもまだ日が照っている。夕方といえど結構強い日差しの中を汗を流しながらトリック・オア・トリートで近所を歩き回っているうちに、お化けのメークもはがれ落ちたってことがあった。やはり、お化けや魔女には薄暗くなってから歩き回ってもらいたい。

二つ目の問題は、「トリック・オア・トリート」と言ってたずねた家の人がハロウィーンを知らないということがよくあることだ。ある年齢以上の人達は(特に高齢者のみなさん)は、まずハロウィーンという「アメリカの文化」を知らないので、玄関先で気まずいムードになる場合がある。当然お菓子もキャンディも用意してくれていないのだから、「失礼しました…」と言って引き上げるしかない。

しかし、大抵の人はお菓子を用意していなくても、子供達に何かあげようとしてくれるもので、昨年はツナ缶やキウイフルーツなどをもらって帰って来た。

8時が近くなってもまだ暑かった2年前のハロウィーン
トリック・オア・トリートの後はプールに飛び込んだ子供達

さて、サチのドレスアップだが、年々パワーアップしており、最近は衣装を手作りしている。今年の衣装も完全に手作り。家にある端切れを使って手縫いで仕上げておりました。(私の手伝いは全く無し!)



今年のテーマはゴス Goth だそうです

今年は、運良く(?)天気が悪かったため7時過ぎには薄暗くなり、ハロウィーンにふさわしい雰囲気となった。仲良しの友達と一緒に「トリック・オア・トリート」を楽しんだサチ。今年はツナ缶や果物をくれる人はいなかったとのこと。ハロウィーンのことを知る人が増えて、ちゃんとお菓子を準備している人が増えている証拠だ。

いいよねえ、ハロウィーン。とにかくみんな楽しんでるっていうのが最高!
また来年が楽しみだ。



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グラニーの誕生日

子供達は、私の母を「おばあさん」、夫の母を「グラニー」と呼ぶ。
昨日30日は、グラニーの63歳の誕生日だった。

彼女は、今どきの言葉で「できちゃった婚」だった。18歳で妊娠し19歳で夫を産んだ。夫は、実際の年齢よりも年上に見えるので、この母息子は姉弟のようにも見える。

ほとんど毎日のように電話で話をする二人は、お互いの生活のこと(家族のことも含めて)、ゴシップ系の話題、今日の予定、健康問題、うれしかったこと、困っていること、まあ何でも良く知っている。私のことも彼女には筒抜けである。

以前は、これが気に触ってしようがなかった。なんでそこまで、いい歳の男が、毎日母親と話をしなければならないのか!なんでもかんでも教えるのか!と、うっとうしく思っていた。しかし、まあね、こうして親子がお互いにサポートし合える関係を続けていて、それで安心できて、お互いの生活の安定に助けになっているなら、どうぞおやりくださいと最近は思う。

実際、彼女は障害を持つ娘のことや自分の目の病気、離婚…と、様々な苦労を乗り越えて来た人だ。夫にしても、病気やビシネスの破綻と様々な苦労があったし…。二人ともそれぞれにパートナーがおり、たくさんの友人がいて、仲の良い妹弟もいるが、とことんサポートし合うこの母息子関係は、私には分からないほど強い特別なものなのであろう。

今年のグラニーの誕生日は、我が家で、私達家族とだけ一緒に、ささやかにお祝いすることになった。

お昼ご飯は、日本から持って来た焼き肉ホットプレートをみんなで囲んで焼き肉!テーブル場で料理しながら食べるという焼き肉や鍋料理は、オーストラリア人の家族や友人に大変人気がある。

そして、バースデーケーキは、シンプルに得意のスポンジケーキ!これを、娘のサチがデコレーションしてくれた。ケーキの中には、たっぷりのイチゴが入っています。

グラニー、お誕生日おめでとうございました。




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2011年10月30日

カンタス全便運航停止

ついにキレた!
カンタス航空経営陣が仰天の決断!
ハルマゲドン!

オーストラリアのフラッグシップであり、観光業のみならずオーストラリア経済全体にとっても支柱であるカンタス航空が、29日、全便無期限運航停止を決断した。全便というのは、オーストラリア国内便及び世界中の国際便の文字通り全ての便ということだ。

カンタス社は、この措置によって莫大な損失(1日あたり16億円!)が出ることを見積もった上での決断。なんで?とお思いでしょう、事情をご存知でない方は。

カンタスの従業員は、賃上げ要求・労働条件改善などを求めてしょっちゅうストライキをするのだが、今年はもう数ヶ月にわたってパイロット、整備士、地上職員の3労組が、 賃上げ要求に加えカンタス社のリストラ計画に抗議するストライキを断続的に続けているのだ。

ストライキによってフライトのキャンセルや遅延が続出。最も迷惑を被っているのは利用客。会社は、安定した運営ができない。ついにキレた会社側は、労組側が法外な要求を撤回するまで運航停止を続け、31日夕刻以後もストを続ける従業員は施設から締め出し、給料を支払わない方針を示している。

私は、労働者に、より良い労働条件や賃上げを求めてストライキをする権利があることは支持するが、はっきり言ってカンタスの従業員(特にパイロットなど)は、他の航空会社に比べ破格の給料をもらっているし、労働条件も良いのだ。どこまでも、人間の欲というのは際限がない。

欲といえば、この会社のCEOならびに役員達に目を向けると、彼らが会社から受け取る報酬の額にも驚嘆する。高額な報酬をもらう彼らは、会社としてとにかく利益をあげることに邁進している。燃料価格が上昇して赤字になっている、労組の賃上げ要求に応じたら経営が破綻するようなことを言っておきながら、年度末の決算で莫大な利益を発表したりする。

(ただし、カンタス社の国際線部門は深刻な赤字に陥っており、経営上の大きな変革が必要となっていることは事実。こうした状況の中では、人件費の安い海外へ事業の一部を移すとかリストラは、企業として経営上必要なことであることは理解できる。)

大企業は、とにかく金儲け第一で、役員達は法外な高額報酬をもらい、従業員もおおむね恵まれた労働環境で働きよい給料をもらっているものの「もっと欲しい」とストライキを行う。従業員の賃金を上げると会社の経費が増大するので、利益を追求する会社は料金なり価格なりを上げる。すると、さらに物価が上がる。私のような貧乏一般人はさらに生活が苦しくなる、という世の中の構図。

「ああ…」

もともとオーストラリアは組合活動の活発な国柄であるし、現政権は労働党だからカンタス労組をサポートしないわけにはいかないだろうし、どうなるのだろうか。とにかく、カンタスが全便運航停止などという事態は、なんとしても早期解決が必要なわけで、 豪政府が労使間の仲介に乗り出しているのだが…。


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2011年10月29日

ついに来たぁ〜

今年はちょっと遅かった。8月から始まることもあるのに。9月に二日ほど症状が出た日があったけれど薬が必要なほどでもなかった。

しかし、やっぱり今年もやって来た。ちょっと遅めの花粉症シーズン!

オーストラリアに住み始めて3年目か4年目のこと。それは、ある日突然始まった。住んでいたのはヒールズビルという町のはずれで、牧草地に囲まれたのどかで美しいところだった。

激しい目のかゆみとしたたる鼻水と止まらないくしゃみ。
「なっ、何だろう?花粉症か?まさかっ…」

耐え難いあまりのかゆさに目をこすりすぎて、まぶたは無惨に腫れ上がり、目の粘膜がジェリーのように膨らんだ。
「どうしよう、医者に行くべきか?」
ティッシュの箱は、見る見るうちに空になってゆく。

「それって、ヘイフィーバーじゃない?」と夫が言った。

ヘイフィーバー Hay Fever  とは、直訳すると枯草熱と言い、要するに花粉症のことだ。日本における花粉症の最大の原因となっているのは杉花粉だが、ヘイ hay 、つまり干し草(牧草)の花粉が原因で生じる花粉症である。牧草というのはおおむねイネ科の植物で、ヘイフィーバーの最も一般的な原因となっている植物は、どこの家にもある「芝」なのだそうだ。

春になると芝が急激に伸び始めるので、定期的な芝刈りはどの家でも必要不可欠。牧場の草も、1シーズン2回くらい刈って俵にする。春は、イネ科植物の花粉が舞い散る季節なのだ。

私の花粉症は、発症以来年々ひどくなる一方である。抗ヒスタミン剤を飲んでも外出さえかなわないような日もある。

アレルゲンを特定する皮膚テストもやってみた。針で小さく傷をつけたところにアレルゲンをたらして反応を調べるプリックテストだが、「草」のところが赤くなるどころか、そこから広がった赤みが腕の大半を覆うほどで、私のアレルギー反応の強さは医者をも驚かせた。注射によるアレルゲン免疫療法も試みたが、アレルギー反応が強すぎて治療期間途中で断念するしかなかった。

日本から取り寄せた花粉症用マスクは、メルボルンでは使いにくい。人々からジロジロ見られるのは気にならないのだが、この季節は(特に症状が出る日というのは)往々にして気温が高い。マスクに覆われた部分は汗をかき、暑くて耐えられない。

症状がひどい日は、抗ヒスタミン剤を飲んで家の中で過ごす。家から出る必要があって、たちまちくしゃみや目のかゆみが始まったら、すぐシャワーを浴びる。この季節、洗濯物は外に干さない。気温が上がってきて窓を開けたくなったら、エアコンをつける。

花粉症との付き合いも長くなってきたから、対処法も分かっている。しかし、本当にうっとうしい面倒なことだ。


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2011年10月28日

驚くべきイチゴ

オーストラリアで果物や野菜を買うと、日本ではあり得ないような品質のものを見ることがよくある。私は、大学生の頃、桃の選果場でアルバイトをしたことがあるが、ベルトコンベアで運ばれて大きさによって選り分けられる前に、痛んだ果物や売り物にならないモノが混じっていないかチェックし、そうした物があれば選果される前に取り出す必要があった。

オーストラリアのスーパーで、大雑把にドカンと山盛りにして売っている野菜など、少々痛んだモノやちぎれたモノが混じっているのは当たり前だ。今では全く気にならないが、こちらで生活し始めた頃には、「もう、こんなものを売ってぇ!」と、腹立たしく感じたりもした。

最近は、以前に比べて品質管理が向上して来たと思われる。日本並みにきれいに揃えてあったり、ネギなどは泥がちゃんと洗ってあったり(あたりまえか…)、ゴミが増えて困るのだがパック詰めや袋入りになって売られている野菜や果物が多くなった。

それでも、時々あっと驚くものに遭遇する。最近、ちょっと信じがたい驚くべきイチゴに遭遇したのでお見せしたい。イチゴは、機械ではなく人が手でパックに詰めているはず。こんなイチゴもちゃんと売り物としてパックに詰めるんだ!と、びっくりしたのが次の3つ。

ヘタの上にもう一つのイチゴがくっついている!
種が発芽して葉っぱがいっぱい生えている
きょ、巨大!
これらのイチゴは、いずれもパック詰めのイチゴの中から発見したもの。日本では、まずお目にかかれない珍品でしょう!


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2011年10月27日

サチの誕生日

今日は、私の娘サチの誕生日。13歳になった。いよいよティーンエイジャーになったということだ。

もう13年にもなるのか。

あの日、私は予定日を2週間も過ぎているのに全く生まれる兆候が無く、お腹は大きくなる一方で、歩くことすら困難になっていた。13年前の今日、いつも診てもらっていたカラザース医師に相談し、この日の午後に生ませてもらうことにしたのだった。破水させることで陣痛を誘発させるということだった。

ランチをすませて病院に行き入院。長いスティック状の道具を使って破水させ、これで陣痛が始まるはずだが、陣痛をおこりやすくするために病院内を歩けと言われ、私は歩いた。巨大なお腹を抱えるようにして。

途中でトイレに寄ったら、そこで陣痛が始まり、あっという間に動けないほどの痛みになった。渾身の力を振り絞って自分の病室に戻ったが、ベッドにたどり着く前に動けなくなった。痛みをこらえるだけで精一杯。
「ナースを呼ばなくては!」でも声も出せないのだ、痛くて…。
ベッドの横にあるボタンを押そうにも、そこまで動けないのだ、痛くて…。
破水させてから、まだ30分もたっていなかった。

夫は、陣痛が始まるまでの時間を使ってランチを食べてくると言って出かけていた。

私は、病室のドアとベッドの中間あたりで、ただ痛みをこらえるのに必死。あと数歩でベッドにたどり着けるのに、その数歩が歩けない。

そこへやってきたナースは、「あーら、こりゃもう分娩室へ行った方がよさそうね!」と言って他のスタッフを呼んだ。
「夫を呼んでください!ランチに出て行ってるんです!携帯の番号は、…」
ついさっきまで病院内を歩いていたのに、この急展開に私も気が動転していた。

分娩室へ入って、医者がやってきた頃にはもう生まれそうだった。しばらくして、やっと夫が帰って来た。もうすぐ生まれそうだと聞いてびっくりしていた。私は、いきみを我慢するのに必死だったが、夫が「もういきんでもいいらしいよ」と言った。

ああ、やれやれと思っていきんだら、2回目のいきみでサチが生まれた。破水させてから2時間もたっていなかった。

サチは、こんな小さい私の体から出て来たことが不思議なほどの大きな赤ちゃんで、体重が4キロもあった。医者は「リトル相撲だ!」と言った。あんまり太っていたので、可愛い赤ちゃんというのとはほど遠く、生まれたばかりのサチを見た夫は、「あーあ…」と思ったと言う。

その娘が13歳になった。今は、私よりも10センチも背が高い。

今日は、バーベキューにして欲しいとのリクエスト。カバブとタコを焼いたのが食べたいと言う。彼女が好きなポテトサラダも作った。バースデーケーキは毎年同じリクエスト。サチは、ブラックフォレストケーキが好きなのだ。毎年毎年作り続けて、私の得意料理の一つとなっている。




美味しそうにいっぱい食べるサチを見ていて、彼女が幼かった頃を思い出した。子供って、本当にあっという間に大きくなっちゃう。なんだかちょっぴり寂しい。




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2011年10月25日

フェイスブック Facebook

最近フェイスブックを始めたら、これがなかなか面白い!

始めたきっかけは、世界各地に散らばる家族や親戚のメンバー達の近況を知ったり写真の共有。残念なことに、日本にいる私の家族や友達はフェイスブックをやっていない。日本におけるフェイスブックの利用者数は、まだそれほど多くはないらしい。

しかし、夫の家族や親戚一同は、老いも若きもみんなフェイスブック利用者。オーストラリア各地はもとより、ドバイとか上海とか海外に住んでいる家族にはなかなか会えないのだが、フェイスブックがあればお互いをとても近くに感じられる。

先日、夫の妹がアフリカ旅行に行ったが、ケニアで撮った写真を現地でアップロードしたのをメルボルンのスーパーで買い物中の私がすぐに見ることができたりする。感想をポストしたり、ちょっとした連絡を取るのにも、とにかく便利である。インターネット接続環境さえあれば良いのだから、かつてのように高額な国際電話料金を支払う必要もなくなった。

大きな災害時には、固定・携帯に関わらず電話がつながりにくくなるが、フェイスブックはそうした災害時にも大変有効な通信手段となっている。

今では、フェイスブックの利用者が世界中で5億人を超えているのだそうな。

こんなパワフルなネットワークをビジネスに使わない手はない!ということで、私の住む街の商工会議所(のようなところ)も、中小企業のマーケティングにフェイスブックの利用を勧めていたりする。

そこで、ウェブデザイナーとしてはフェイスブック・ビジネスのデザインもできた方が良かろうと思い、自分のフェイスブックページにオリジナルのページを作ってみました。通常のやり方で自分のサーバーにコンテンツを用意し、フェイスブックのページ上でそのコンテンツを見せるというやり方です。




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2011年10月22日

すずらん Suzuran

腰痛のためたったの4日しか働くことができなかった日本食材店の名前は「すずらん」という。メルボルン東の郊外では唯一の日本食材専門店で、店内にはメルボルンで一番美味しいと評判の寿司のテイクアウェイがある。

場所は、キャンバウェル Camberwell のバークロード Burke Road と カンタベリーロード Canterbury Road の交差点のすぐ近くで、店の前のバークロードか近くの路地に駐車できる。便利な場所ではないにも関わらず、毎日途切れることなく買い物客が訪れるので、時間帯によっては駐車に手こずるかもしれない。



「すずらん」は、大きな店ではない。むしろ狭いくらいだ。新しくスタイリッシュなスーパーではない。ちょっと古っぽい感じの店だ。外から見ると、英語で言うところの poky な感じさえする。しかし、店内に入るとその素晴らしい食材の品揃えに目を奪われ、「おおっ」と胸が高鳴り、店内に充満するおいしそうな寿司の臭いに「ああっ、いいにおい!」と思わず深呼吸すること請け合い!

メーカーにこだわらなければ、たいていの食材はこの店で手に入る。麺類や調味料はもちろんのこと、しめさば、さんま、うなぎの蒲焼き、レンコン、ごぼう、新鮮な豆腐、美味しい味噌、大福まんじゅう、たくあん…と、とにかく何でもある。商品によっては、まさに飛ぶように売れていくので、売り切れていなければの話だが。日本酒や日本製ビールも豊富に揃っている。

しかし、この日本食材店「すずらん」が、決定的に他の食材店と異なっているのは、ここの寿司バーで新鮮で美味しい寿司や刺身がテイクアウェイできることだ。

高級日本食レストラン並の寿司や刺身をテイクアウェイ価格で食べられるのが「すずらん」ともっぱらの評判だ。テイクアウェイとしては、価格は安くはない。しかし、使用する魚のクオリティーを考えてみれば、納得の価格と文句なしの味だ!


毎朝仕入れる新鮮な魚!こりゃあ美味しいはずだよ…と、私は思った。作っている人達がみんな本当にいい人ばっかり!人柄が味に出ているのかも…とも思った。


スタッフとしてたったの4日でも店の中で働いたから私には分かる。なぜこの店に、あんなに大勢の人が毎日買い物にやってくるか、寿司を買いにやってくるか。それは、この店でしか手に入らない物があるからだ。新鮮で美味しい食材とメルボルンで一番美味しいテイクアウェイの寿司と刺身。そして、そこで働いている真面目で誠実なスタッフの人達。

一度行ってみてください。絶対リピーターになりますよ。


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2011年10月21日

4日目で終わり

18日の火曜日から新しく始めた仕事。今日でトレーニング4日目だったのだが、私の腰は朝から悲鳴を上げていた。

1日目は、前回のブログにも書いたのだが、疲れた!足が棒のよう!腰にも来ているな!という感じ。何年もコンピューターの前に座って仕事をしていたために体力が衰えていること、特に足腰の弱さを実感した一日だった。

2日目は、完璧に腰にきていて痛い!普通に歩けない!ちょっとヤバいかも!前の晩よく眠れず疲れ果てていて、この日の夜はブログを書くことなど無理だった。

3日目は、腰の痛みのため鼻をかむことができなかった。こんな状態では、とても続けて行けないのではないかと心配になった。「続けたい!」と強く思った。仕事に慣れてきたし、この仕事がとても楽しいと感じていたから、「続けたい!」と。「だけど続けられないかもしれない、どうしよう…?」この夜は思い悩んで再び夜眠れなかった。

4日目の今日。ついに、椎間板ヘルニア的痛みが出現した。ズキン!と鋭い刺すような痛みが腰、背中、そしてなぜが右脚に!仕事の前に痛み止めを飲むしかなかった。そして、正直に腰痛についてマネージャーに報告した。私は、パートタイムとして続けさせてもらえるのではないかと期待していた。

マネージャーは社長にこの件を話してくださり、社長の判断は、「あなたには、この仕事は無理です!」ということだった。「これからクリスマスに向かってさらに忙しくなり、日本食材店としては、商品の仕入れも大量となるから、物を運んだり持ち上げたりする仕事は必須となる。腰痛は、こじらすと直すのが大変難しい問題だし、この仕事で腰の状態をひどくして、今後健康な普通の生活ができなくなるようなことになったらそれこそ大変なことだから、あなたはこの仕事をここで続けていかない方が良い。」ということだった。

社長さんとマネージャーの話し方が本当に親切な感じだった。仕事を続けられないことでショックを受けて悲しかったところへ来て、さらに心を動かされて涙が出た。

たったの4日しか働かなかったかれど、働けてよかったと思った。そして、店のスタッフとして働いたから分かる。なぜ、この小さな店に、あれほど多くの人々が毎日買い物にやってくるか。なぜ、この店の寿司があんなにおいしいのか。そして、なぜ、この店で買い物をする時、不思議な心地よさを感じるか。

それは、また明日書くことにしよう。


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2011年10月18日

新しい仕事

疲れたあ。

第一日目が無事終わった。長い一日だった。

小学校の日本語教師をやめてから、私の仕事はほとんどコンピューターの前にすわってやる仕事ばかりだったので、体力が落ちている。特に足腰が相当弱くなっていると実感した。「うつ」でずっと家にいたからメンタルの方も少し心配ではあったが、そっちの方は全く大丈夫だった。

私の新しい仕事場は、日本食材を売る店。メルボルンの東の郊外では唯一の日本食材専門店で、店にはメルボルンで一番おいしいと評判の寿司のテイクアウェイもある。実は、私にとっても私の子供達にとっても、長年お世話になってきた特別な店でもある。

今日は火曜日。こんなに忙しいとは想像していなかった。休む間がないとはまさにこのこと。お店で働くスタッフ達は、本当に根っからの働き者ばかりと実感!

小さいけれども気持ちの良い店で、いつも美味しく新鮮な食品を豊富な品揃えで提供してくれてきたこの店。中に入って働いてみて初めて分かった。この店の優れたサービスのかげには、スタッフの人達のこうした献身的とも言える努力とハードワークがあったのだ。

本当に小さな店。場所的にも便利な場所ではない。それでも、一日中、全く途切れることなく買い物客が訪れる。おいしい寿司を求めて人々がやってくる。そんな店のスタッフの一人となった私。お店のためにも、お客様のためにも、役に立ち合いと思った第一日目でした。

しかし、一日中立ちっぱなしで足が棒のよう。

こんなんで役に立てるスタッフとなれるかどうか?

2011年10月17日

明日から仕事に出る

ここ数年の我が家のキーワードは、正直言うと「うつ」「不安症」「ひきこもり」「生活苦」「経済的困窮」…とかなり重い言葉が並ぶ。特に「うつ病」は、私が自分の暮らしを語ろうとする時、切り離せないキーワードだ。

私が具合が悪くなり始めたのは、もうすぐ15歳になる長男のカイが生まれてすぐの頃。マタニティーブルーと呼ばれる産後うつ病とは違うが、ホルモンのアンバランスというのは影響していたのだろう。私は地元の小学校で日本語教師をしていたが、ストレスでやめざるを得なくなった。次の日学校へ行くのが辛くて毎晩泣いていたのだ。

その後、長女のサチが生まれた頃には、夫とともに自宅から日本語教材を販売するビジネスやっていた。自宅の唯一の電話を仕事にも使っていたために、毎日電話がなりっぱなしで、電話恐怖症になった。車を運転するのも怖くなった。人に会うのがおっくうで、家族だけで家にいる時が一番楽しかった。

夫が新しいビジネスを始めてほとんど家にいない生活が始まり、私はほぼ一人で子供達を育てなくてはならなくなった。夫が始めたビジネスのために、翻訳、グラフィックデザイン、ウェブサイト制作、法律の勉強…と、 仕事は山のようにあった。毎日、一人で家事と子育てと仕事とに追われて、もういっぱいいっぱいの生活。

そして、夫が銀行や友人から多額の融資を受けてビジネスをもっと大きくしようとした頃、私は本格的に具合が悪くなった。子供達の学校への送り迎えが最大の苦痛となり、とにかく買い物に行ったスーパーの中でも泣いていた。(それでも、うつ病ではないと言って、医者に診てもらわなかった。)7年前のことだ。

夫のビジネスのために家族で日本に長期滞在することになって、家族が一緒にいられる時間が増えた。子供達も楽しそうに日本の小学校に通っていた。ビジネスもうまく行っていた。それなのに私のコンディションは徐々に悪くなり、理由もなくとにかく憂鬱で家から出られなくなった。「これは病気だ」と、やっと自覚した。

それから6年。今年、私は抗うつ薬を飲むのをやめることができた。もちろん医者の指導のもとに数週間をかけて徐々にやめていったのだ。そして、明日から仕事に出ることになった。

普通の人が新しい仕事を始めるのと、「うつ」でずっと家にいた人が新しい仕事に出るというのは、かなり緊張の度合いが違う。私は、今とても緊張している。でも、「頑張れ!」とは自分に言わない。「大丈夫!なんとかなる!」と思うようにしている。


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2011年10月16日

ブータンと西岡京治さん

先日、ヒマラヤの王国ブータンのジグメ・ケサル・ナムゲル・ワンチュク国王が結婚されたというニュースがあった。相手は、まだ21歳の学生だというジェツン・ペマさん。大変美しい女性だ。お父さんが国際線のパイロットだという。


結婚式の取材には、ブータン史上初めて13カ国ものメディア関係者約160人が現地入りし、特に国王のイケメンぶりが女性に大人気のタイからは、50人以上の大型取材団が訪れたという微笑ましいニュース。

結婚式の後、町に出て国民の祝福を受ける国王が抱き上げた幼い女の子のうれしそうだったこと!ニュースの映像に映る人々がみんな本当にうれしそうで、楽しそうで、この国の前国王が提唱したという「国民総幸福量」の話を思い出した。

ブータンという国は、中国とインドに挟まれたヒマラヤ山脈の中の小さな国なのに、国民が英語を話すというのが不思議だった。調べてみると、英語は事実上の第一公用語で、この国の学校教育は英語で行われているのだ。

私には、ブータンと聞いて必ず一番に思い出す人がいる。ブータン農業の父とも呼ばれる西岡京治さんのことだ。この人のことは、「世界ふしぎ発見」というテレビ番組で知った。


1964に、海外技術協力事業団の農業指導者としてブータンに赴任され、亡くなられるまでの28年間、野菜の栽培や品種改良、荒地の開墾などブータンの農業振興に尽力された。そして、1980年には、当時の国王から国の恩人として、民間人に贈られる最高の爵位であるダショーという爵位を授かった。外国人の受爵は、西岡さんただ一人であると番組では言っていた。

西岡さんは、帰国直前の1992年に敗血症のため急死された。ブータン政府は、西岡さんを国葬で送り、ブータン国内から5000人に上る人々が葬儀に集まったそうだ。番組を見ていて、すごい人だと感動したのを思い出す。

国際留学生協会のウェブサイトに、西岡さんの紹介文が載っていますので、興味がある方はお読みください。


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2011年10月15日

酒類取り扱いライセンス

新しく始めることになった仕事で、RSA(Responsible Service of Alcohol)という資格が必要だということで、その取得のためにメルボルンに行った。

前日、インターネットで調べて日曜以外の毎日RSA取得コースを開講している Hospitality Training Australia という学校に金曜日午後のコースを予約。この学校は、Collins Street コリンズ・ストリートにある。メルボルンのシンボル「フリンダース・ストリート駅」から歩いてもすぐの便利なロケーションだった。

昨日のフリンダース・ストリート駅

学校の入っているビルの入り口

オーストラリアでは、酒類を扱うレストランやクラブ等で働く人だけでなく、酒類を販売する小売店などで働くためにもこの資格が必須である。アルバイトをする場合でも、この資格を持っていないと働けない。RSAの資格を持たない人を働かせると、雇用者に高額の罰金が課せられる。

私が
参加したコースの参加者は、25人ほど。ほとんどがローカルのオーストラリア人だったが、ホスピタリティーの仕事を探しているという外国人も数人いた。日本食レストランで働くために来ていると自己紹介した女性(日本人のアクセントだった)は、英語の理解に問題があったのか講義について来れない様子で途中で帰ってしまった。

トレーナーのKenという男性は、長年ホスピタリティーで働き、酒の飲み過ぎに関する様々な問題を知り尽くしているという人。大変厳しい調子で早口で話し、受講者達に質問を浴びせ続ける!ワークブックにそって、酒類を責任を持って上手に提供するための知識やテクニックを教えてくれた。途中ビデオを見たり、グループアクティビティーなどを取り入れたコースは、飽きることなく(というよりも一瞬も気を抜くことができず)、4時間があっという間に過ぎた。

使用したワークブックの表紙

近年オーストラリアでは、お酒の飲み過ぎに関係する事故、犯罪、病気、家庭暴力などが深刻な社会問題となっている。酒類を提供する側には、大きな責任があるのだ。酔っぱらっている客への酒の提供を拒否する法的責任というのがあるとは知らなかった。これは、簡単にできることではない。しかし、これを怠ると高額の罰金が課せされるのだ。トレーナーのKenは、この点について特に熱心に教えた。なぜ拒否しなければならないのか?客を怒らせることなくどうやって拒否するか?このような状況を回避するためには、どのように酒を提供するべきか?

講義の最後に簡単なテストがあった。ワークブックや講義のメモは見ることができない。ほとんどの人は、問題なく合格して資格証をもらって次々に教室を出て行った。私も、テストは満点だったので(本当に簡単なテストなんです!)資格証を受け取ることができた。ところが、驚いたことに、回答にずいぶん時間がかかっていたインド系の3人の受講者は、この簡単なテストに誤答だらけで不合格となった!あれは、英語力不足が問題だったと思う。しかし、トレーナーのKenは、彼らが間違った箇所について重要ポイントを再講義!おそらく再テストでなんとか資格が取れたのではないかと思いたい。

私は、真剣に厳しくシリアスな講義をしてくれたKenにお礼を述べて教室を出た。この講義で学んだことのほとんどは、私の仕事には必要ないことだったが、大変勉強になることばかりだった。


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2011年10月13日

眠れない夜の月

最近、夜眠れない。

いろいろとしんどいことがたくさん起きていて、実はもういっぱいいっぱいなんだけど、「私がしっかりしていなければ! Stay strong ! 」と、家族のために自分を励まし続けている。以前、うつだったからよく分かっている。こういう「頑張れ!頑張れ!」は危険だ。

実は、このブログを始めたきっかけは、自分を励ますためだった。文章を書くことが好きだから、毎日何か書いているとしんどいことを忘れることができるんです。

でも、やっぱり眠れない。(これって危険信号!)

昨夜はなんとか眠れたのだけど、夜中に目が覚めて、もう一度眠ろうとしばらくごろごろ寝返りをうっていたが、眠ることはできなかった。4時頃だったか、仕方なく起きることにした。真っ暗な家の中をキッチンの方へ歩いていると、何やら外が明るい!

「あれっ?」と思い、窓の外を見ると、満月が西の空に傾いていくところだった。そうか、昨夜は満月だったのか。

中秋の月の頃は、いつも天気が悪くまだ結構蒸し暑かったりするので、私はいつも中秋の次の満月を見るのが好きだった。昨夜の月は、その満月だったのだ。

眠れなくて、しんどくて、夜中に起きてみたら、こんなに美しいものを見れた。
なんだか、心がほぐれた感じがする。



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2011年10月12日

キャロットケーキ

もう何年も前のこと、まだ幼かった子供達を連れて日本に里帰りした帰りのことだった。幼い子供を連れての旅行はハードワークである。私の実家は岡山県の田舎にあるので、成田空港まで行くだけでも大仕事なのだ。JRを乗り換えてやっと成田に着いた頃には、すでにクタクタであった。

まだ幼かった子供達(シドニー空港)

飛行機の中でもお母さんは休めない。狭い機内で、疲れた幼い娘はぐずぐず言うし、息子は鼻血を出すし。しょっちゅうトイレに行きたがるし。
「お父さんに連れて行ってもらってよ!」
「だめぇ、お・か・あ・さ・ん!」
なんでお母さんじゃないとだめなのか…。とにかく何度もトイレに通った。

退屈しないようにゲームをしたり絵を描いたり、自分が休む暇などほとんどない。第一、私は飛行機の狭い座席に座った状態で眠れる人ではないので、シドニーについた頃には、もうクッタクタに疲れていた。ちゃっかり空席を確保して体を横にしていびきをかいていた夫は元気そうだったが、私はといえば、目の下にクマ、化粧などすっかりはがれ落ち、明るい照明の下へ出て行くのがはばかられる状態。(あとちょっとだ!辛抱、辛抱!と自分を励ます。)

さて、国際線はシドニーまで。入国審査が待っている。そして、シドニー空港最悪の厄介、ターミナルの移動である。国際線ターミナルからバスで国内線ターミナルへ移動。 そして、国内線チェックイン、やっとゲートにたどり着く。メルボルン行きのカンタス機に乗った時には、本当に疲れ果てていた。


その機内で、モーニングティーとして出されたのが、キャロットケーキだった。それまでキャロットケーキを見たことはあっても食べたことはなかった。食べたいと思ったことがなかったのだ。ニンジンの姿がモロに残っており、クルミと干しぶどうが入っているのが見える。私は子供の頃からクルミが嫌いだった。それにシナモン系のスパイスも苦手だった。

私は、本当に疲れていたし、空腹だった。そこで、一口食べてみることにした。ひんやりと冷たいケーキだった。しっとりとして、ニンジンの味など分からないが程よく甘く、フルーティーで、シナモンの風味が心も体もほっとさせる味だった。クランチーなクルミが食感と味の両方に置いて絶妙のコンビネーションで、干しぶどうの味も良いアクセントであった。

そして、キャロットケーキにはまってしまったのです、この時から。

いろんなカフェでキャロットケーキを食べたが、あの日シドニー発メルボルン行きのカンタス機で食べたキャロットケーキに匹敵するケーキは無かった。自分でも様々なレシピを試みてみたが、「これだ!」というレシピには、なかなか巡り会えなかった。

ところが、ついに手に入れました!というか完成しました!というか。あの日、カンタス機で食べたのとそっくりな味に仕上がるレシピ。インターネット上で見つけたいくつかのレシピを試行錯誤した結果であります。あんまり美味しいので、ニンジンが入っていると聞いて食べるのを躊躇していた野菜嫌いの息子にも大好評。食べた人がみんな褒めてくれるこのレシピ。どうぞ作ってみてください。




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2011年10月11日

ゴキブリを食べた弟

これは、私の義弟リッキーの話である。

コンピューターのファイルを整理していたら、昨年のクリスマスに、私の娘のサチがリッキーへのプレゼントに作ったTシャツのデザインがあった。まず、そのデザインをご覧ください。


I know what they taste like… (オレは、こいつらがどんな味か知っている) のは、なぜか?何かの味を知るためには、それを食べてみるというより他の方法はあるまい。リッキーは、この黒々と光るゴキブリを食べたことがあるのだ。むろん生ではない。から揚げのゴキブリ。食べた場所、それは中国のどこかだ。

リッキーは、昨年、人気リアリティーTVシリーズ「アメージングレース」の中国版であるThe Amazing Race : China Rushに出場した。このレースで、出場チームには様々なタスクが課せされる。



タスクには、ゲテモノ(失礼!)食いというのもあったのだ。レースに勝つためには、出されたものは食べなくてはならない。リッキーがゴキブリを食べたのは、レースに勝つためだった。リッキーのチームは、惜しくも(本当にわずかの差で)2位となった。ゴキブリの味は、悪くなかったそうだ。

私が初めてリッキーに出会った時、彼はまだ小学校の3年生だった。しょっちゅう口唇ヘルペスが出て唇が腫れ上がっていた、そんなイメージがある。私は、リッキーが通う小学校で教えていたので、彼は私の生徒の一人でもあった。

私は、リッキーの歳の離れた兄と結婚したので、彼は私の弟になった。ある日、リッキーが家の木の上に板をクギで打ち付けて作ったプラットフォームに、私を上がらせてくれた。二人で木の上に座って遠くの景色を眺めた。どんな話をしたかなど覚えていないが、木の上から二人で眺めた景色だけは鮮明に思い出すことができる。

リッキーが5年生の時、学校で具合が悪くなり、私は昼休みを利用して彼を家に連れて帰った。風邪をひいたのだろう、熱をはかると少し熱があった。家族が帰ってくるまで、しばらく一人で寝させておくしかなかった。
「お母さんがすぐに帰ってくるからね。それまで、一人で大丈夫?」
「だいじょうぶだよ。」
私は、コップに水を入れてベッドの横に置いてやった。その時見たのだ、リッキーがおもちゃのナイフを枕の下に隠しているのを。
(やっぱり一人で家にいるのは心細いんだな)と思った。
授業があったから、私は学校に戻らなければならなかった。運転しながら、今頃、リッキーは不審者の侵入に備えて、おもちゃのナイフやピストルで武装しているんだろうと思うと、心配が半分、可笑しいのが半分。

マッシュルームとズッキーニが大嫌いな可愛い子だった。

そんなリッキーは、大きくなってリックと呼ばれるようになっても、私にはリッキーちゃんなのだが、いつの間にかすっかり大人の男になった。世界中を旅して歩き、仕事でも世界の様々なところを旅して、現在は上海に住んでいる。今日は、アメージングレースのことを調べようとネット検索していて偶然彼のウェブサイトを見つけた。なかなか良いので紹介したい。



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2011年10月10日

大量のスポーツバウチャー

いつも食品の買い物で利用しているColes(コールズ)というスーパーマーケットは、オーストラリアの大手スーパーマーケットチェーンの一つで、昨今話題のMaster Chef(マスターシェフ)というテレビ番組の筆頭スポーンサーでもある。

昨年に続き、今年もSports For Schools(学校にスポーツを!)というキャンペーンを行っている。国内の全ての小学校とハイスクールが参加可能で、学校ぐるみでスポーツバウチャー(商品引換券)を集め、集めたポイントによってスポーツ用具がもらえるというキャンペーンだ。Coles(コールズ)系列のスーパーマーケットで買い物をすると、10ドルあたり1枚(1ポイント)がもらえる。ただし、このキャンペーンの共同スポンサーとなっているメーカーの商品を買うとボーナスポイントが加算される。レシートにプリントアウトされるポイント数を確認して、レジ係の人がスポーツバウチャーをくれる。



学校は、生徒の家族(一緒に住んでいないおじいさんおばあさんも含め)と先生達が一丸となってバウチャーを集める。学校から届くニュースレターなどで繰り返しColesのスポーツバウチャー集めに協力を呼びかける。集めたバウチャーは、多くの学校ではボランティアのお母さん達がポイント数を数える作業を行う。キャーンペーンカタログから、集めたポイントでもらいたいスポーツ用具を決め、キャンペーン終了時に申し込む。カタログを見てみたい方は、こちらで見ることができます。

こうして、各学校はサッカーボールやクリケット用具一式や、様々なスポーツ用具を手に入れることができるというわけだ。

私も、このバウチャーを集めている。 昨日、Colesで買い物をした時、100ドルくらいの買い物だったので10枚くらいもらうものと思っていたら、レジ係の人が大量のバウチャーを渡そうとするのでびっくりした。(50枚以上あったと思う。)

「ものすごくたくさんくれるんですねえ!」
「ええ、さっきあなたの前にきた人が、自分は集めていないので次の人にあげてくださいと言って置いていかれましたから、これは全部あなたのものです。」

レジ係は、客の一人一人にスポーツバウチャーを集めているかどうかたずねる。集めていないと言う人には当然バウチャーはくれないのだ。私は、感心した。自分は集めていないが、次の人にあげて欲しいという客にも感心したが、その人の分のバウチャーを次の客の私にちゃんと渡してくれるレジの人にも。

ColesのSports For Schools(学校にスポーツを!)キャンペーン。マーケティングの一つでしょ?と冷めた見方の人もいるが、利益の一部を社会に還元するマーケティングである。私は、素晴らしいと思っている。

このキャンペーンは10月18日に終わります。
詳細は、Coelsのキャンペーンウェブサイトから。


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2011年10月8日

ツレがうつになりまして

「ツレがうつになりまして」が、映画になったそうだ。

原作の漫画本(細川貂々作)は、私がうつから回復しかけた頃にアマゾンで買って(アマゾンは海外にも発送してくれる)泣きながら読み、さらに回復して行く間に何度も繰り返し読み、今は本棚に置かれて「希望の星」のように黄色く光っている。装丁を黄色基調にしたのはグッドチョイス!具合が悪かった時には、この本の黄色い色が気持ちよく見えた。


この本「ツレがうつになりまして」は、現在具合が悪い人が見ると、かなり苦しくなるヴィジュアルがたくさん含まれている。私だったら、とても見られなかっただろう。うつ病の、あのどうしようもない苦しい感じが、コミカルに描かれているとはいえ目に見えるのだから、インパクトは強烈である。

この本を買った頃、私は、コンディションがかなり良くなってきていると自分で感じていた。偶然、何かのウェブサイトでこの本のことを知って取り寄せたのだが、いざ読み始めてみると、この漫画本は、スイスイと読み進める本ではなかった。読みながら、私は涙をぽろぽろ流した。時にはのどの奥に「ウッ!」と何かがつっかえたような気持ちになり、そんな時は読むのを止めた。少しずつ読んだ。ところどころに挿入されたツレさんのコメントが、本当に重要だった。

そして全て読み終わって、私は気持ちが軽かった。私も良くなってきているぞ!と思えた。

ツレさんにとって家事が究極の作業療法だったように、私にも一つ回復を大いに助けてくれた作業がある。それは「草取り」。人に会いたくないので家の外に出ない日々が続いて、いつの間にか我が家の周りは草ボーボー状態になっていた。芝刈り機で切ってしまえない場所がたくさんあって、手で抜くしかない状態だった。ある日、しかたなく草取りを始めた。黙々と草を抜く。すっと根っこが抜けると気持ちがよい。根っこが抜けずにちぎれると悔しいので、なんとか根っこまで全部抜けるように工夫する。1時間ほど一人で黙って抜いた。そして、草が無くなってすっきりした所を眺めると、感じた満足感は大きかった。「草取り」は、究極の黙想アクティビティーだった。その後「草取り」は私の日課になり、草を取れば取るほど心が落ち着いて行った。

私は、子供の頃からずっと100点満点の自分像があり、それに近づこうとする生き方をして来たと思う。それは間違っていると気づき、自分の欠点も弱さも自分の一部と受け入れ、他人からの評価を気にせず、「こういうのもあり!」という生き方ができるようになったのは、うつ病になったのがきっかけだった。「絶対こうするべき!」とか「こうでなかったら、私は落伍者…」とか「負けるものか!頑張るんだ!やればできる!」とか「途中でやめたら卑怯もの」とか、そういう自分を追い込んで行く生き方だった。

今は、「まあ、なんとかなる!」とか「そんなに無理することはない」とか「途中でやめてもいいんだよ」とか、そういう自分に逃げ道を作ってあげる生き方だ。自分の人生は、自分の心に従って生きれば良い。その生き方が他人にどう評価されるかなど、重要なことではない。「こういうのもあり!」と思えたら、頑張らなくなれるし、小さなことにくよくよしなくなる。

映画版「ツレがうつになりまして」、DVDが出たら見てみようかな。


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2011年10月7日

彼は未来を創り、私達をそこへ導いた

やはり、Macユーザとしては書かないわけにはいかない。スティーブ・ジョブズが亡くなった。昨日の朝、コンピューターをつけて、The Ageというメルボルンの新聞サイトを見たら、ジョブズの写真がトップに載っていて、1955-2011と書かれていた。
「うそぉ!死んじゃったの?」と思わず叫んだ。

AppleのCEO職から退いたのは、ほんの数週間前のことだ。
こんなに早く…。
まだ、56歳だったのに。

長年、彼の健康問題がメディアはもとよりMacファンや多くの人の関心事だった。肝臓の手術をしたのは知っていたし、Apple新商品のプレゼンテーションに登場する度に目に見えて痩せていたので、深刻な病気を抱えていることは知っていたけれども、膵臓がんと戦っていたことは、今朝新聞を読むまで私は知らなかった。

初めてMacのコンピューターを見たのは、1988年のことだ。私は、アメリカのアラバマ州、レッドベイという街の学校で日本語や日本文化を教えていた。その学校は、キンダーから12年生まである学校で、レッドベイの街は小さな田舎町だったが近隣の地域からスクールバスで子供達が通ってくるので、生徒は1000人以上いたと思う。その学校の小学部の図書室内のオフィスを、私は準備室として使っていた。

その図書室に小さな四角いちょっと黄色っぽいベージュ色のコンピューターがあった。かじったリンゴの絵がついていて、Appleと書かれていた。変わった名前だなと思ったのが最初の印象だ。そのコンピューターは、各教室で良い行いをしたり学習や学校活動で顕著な努力を認められたりした生徒がご褒美として使用を許されているクイズマシンのようなものだった。

アラバマの小学校で見たMacintosh 128K

生徒は、フッロピーディスクを挿入し、次々にスクリーンに表示されるクイズを読んで、マウスを使って答えを選択したり、キーボードで答えを入力して行く。文字だけでなく、画像も表示されていた。そのようなコンピューターを見るのは初めてだった。 当時、私は東芝のワードプロセッサを愛用していたが、その四角いコンピューターはワープロとはレベルが違った。慣れた手つきでその四角いコンピューターを使う子供達を見て、アメリカという国はなんと進んでいるのだろうかと心底感心したものだ。

その後、自分用のパーソナルコンピューターを購入しようと思った頃には、ウインドウズの時代となっていて、 Macよりもウインドウズと多くの人に勧められて四角いベージュ色のPCを買った。それで満足していたのだ、iMacを見るまでは!

私が初めて見たiMacは、オレンジ色のマシン。でっかい箱型のコンピューター本体が横に置いてないので、(っ?)と思ったのを覚えている。小さいおしゃれなテレビみたいなそれが、ディスプレイ&コンピューター一体型のマシンだと知った。私が使っていたベージュ色のでっかい箱&ベージュ色のでっかいディスプレイと比べたら、それはもう異次元の製品。スタイリッシュなデザイン。場所を取らないコンパクトさ。とにかくカッコイイと思って見とれた!

オレンジ色のiMacとの出会いは衝撃的だった

その後、私はグラフィックの仕事をすることが増えて、もっとパワフルなマシンが必要になった。そして購入したのが、Power Mac G4。我が家を訪れる友人知人の目を引きつけるスタイリッシュなデザイン!OSXの使いやすさ!パワフルさと安定性!ウイルス感染を心配し続ける面倒が無い気楽さ!ソフトが素晴らしい!多くの理由から、それ以来ずっとMacユーザである。

iPodは、使っていたがそれなしで生活に不便を感じるようなものではなかった。しかし、iPhoneは必需品となっている。現在の私には、iPhoneの無い生活は考えられない。一度、iPhoneのマイクが故障して音を拾わなくなり修理に出した。郵便局に故障した iPhone を預けて、修理が終わって戻ってくるまで1週間。(保証でカバーされて1ドルも費用はかからなかった。)その1週間、本当に不便だったし、なんだか不安だった。そして、最近では、iPhoneの画面が小さすぎて、眼鏡無しでは文字を読むことが困難になって来たので、iPadが欲しくなっている。

ちょっと何か調べものをしたい時に、いつでも情報が得られる手軽さ。知らない場所へも迷わずたどり着けるナビゲーションや地図機能。電車の発着時刻や乗り換え情報もすぐ調べられる。家族や友達と遠く離れていてもつながっていられるソーシャルネットワーク。いつでもメールをチェックして、スピーディーな情報交換。レシピ探しもチョチョッと簡単に見つけられる。テレビの前ではテレビガイド。退屈な待ち時間には音楽を聴いたりビデオを見たりゲームをしたり。携帯電話にメーッセージを送信。信じがたいテレビ電話機能。写真やビデオをいつでも撮影。ああ、とても書ききれない。こうした日々日常的に使っている機能の全てがこの小さなiPhone一つに入っている。

スティーブ・ジョブズは、確かに世界を変えた。初めてあの四角いMacを見て衝撃を受けた1988年からわずか20年ほどの間に、どれほど私たちの生活が変わったことか。世界が変わったことか。彼が健康でこれからさらに20年生きていたら、その間にどんな変化が起きただろうか。第2のスティーブ.ジョブズが現れて、世界はさらに変わって行くのだろうか。


今日は、様々なウェブサイトでスティーブ.ジョブズの名言(Quotes)を読んだ。一番好きだったものをここに紹介します。

「Remembering that you are going to die is the best way I know to avoid the trap of thinking you have something to lose. You are already naked. There is no reason not to follow your heart. 」1987

私も、自分の心に従って生きたい。


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