2024年7月19日

親の言葉が人を育てる

30歳も過ぎてからうつ病や不安発作で苦しむことになった私の、子供の頃の出来事をいくつか紹介します。

共通しているのは、ネガティブなインプットです。

繰り返し繰り返し小さなミスを叱られて、何か悪いことが起きると私自身が悪いと怒られ、「従順な良い子でいないと怖いことが起きる」ということを潜在意識に刷り込まれた経過です。

現在子育てをされている方や、将来子供を持ちたいと考えていらっしゃる方には、自分の言葉が子供に与える影響について考えるきっかけにしていただきたいと思います。


車にはねられた5歳の時のこと

父と二人、何かの用事で町の商店街に行った時のことです。父が急に道路を渡って行ってしまったので、遅れてはいけないと急いで後を追った私は、右手から来た軽トラックにはねられました。

その時「何しょんなら!よう見て渡らにゃあ!」と叱られました。「大丈夫か」とは言いませんでした。

車にはねられたショックに加え、父に怒鳴られた私は、自分の不注意を後悔しました。家に帰って休んでいる間も、頭がくらくらして気持ちが悪かったのを覚えています。


迷子になった5歳の時のこと

その日、保育園から自分の家に帰るのではなく、バスに乗って父の実家に行く必要がありました。一人でバスに乗ったことなどもちろんありませんでした。私は5歳でした。

父の実家がある集落の近くから保育園にバスで通っている子供達の集団がいたので、その子達と一緒に帰ることになっていました。ただし、その子達は集落に入る手前で降りてしまうので、私は一緒に降りないで迎えが出ているバス停までずっと乗っていろ言われていました。

それなのに、その子達がバスを降りた時に私も一緒に降りてしまったのです。一人ぼっちになるのは不安でしたからね。5歳ですもの。

その子達が家に帰ってしまった後、暗い見知らぬ田舎道に一人取り残された私は途方に暮れ、恐怖と不安で泣き始めました。泣きながらバスが去った方へ歩くしかありませんでした。

祖父が自転車で向えに来たことは覚えていますが、祖父の姿を記憶してはいません。父の実家に戻り、「他の子達と一緒に降りてはいけないと言われただろう!」と叱られました。叱ったのが誰だったかは覚えていませんが、このつらい経験が自分の不注意が原因なのだと思い知ったのでした。

自分の不注意で失敗すると、叱られるだけではなくつらい経験をすることになると分かりましたから、幼い私は「失敗をしないように」「叱られる原因を作らないように」と細心の注意を払って頑張るようになって行ったのです。

子供が転んだりしたら、まず「だいじょうぶ?」と声をかけるものですよ。「なにやってんの!」「気をつけて歩きなさいよ」と叱ったり、転んだことを笑ったりすれば子供の心は傷つくに決まっているでしょう。

こうしたことが積み重なれば子供がどんな人間に育つか、ここで詳しく書く必要もないと思います。


同じクラスの女の子が父親に惨殺された6歳の時のこと

同じクラスの女の子が家で父親に斧で惨殺されるという事件が起きたのは、小学校に入学して間もない6歳の時のことです。話を聞いて来た父が、私達家族に事件の詳細を語るのを聞いて、その様子を想像した私は激しい恐怖を感じました。

自分の父親に殺されることもあるのだと知ったこの事件は、まさにトラウマとなる出来事でした。クラスの子供達は先生と一緒に歩いてお葬式に行ったのですが、事件のあった家の近くに行くことが怖くてたまらなかったことを覚えています。

常識的に考えて、このような犯罪の詳細は幼い子供に教えるべきではないですよね。犯罪に限らず、災害やニュースで見聞きする戦争の話にしても、子供への影響を良く考えなくてはいけません。

トラウマになるような情景を幼い子供に見せるのも問題です。


従順でないと恐ろしいことが起きる

私が幼かった頃、町では有名な「おしかさん」と呼ばれる女性がいました。記憶していることから考えると、この女性は初老の女性で、リヤカーを引っ張って廃物を集めて回っているホームレスのような人です。

言うことを聞かないと「おしかさんに連れて行ってもらう」と、私は繰り返し父や父の実家の人達から脅されていました。そして、「おしかさん」は父の実家がある集落に出没する人でもあったので、父の実家に行く時にはいつも不安と恐怖を感じたものです。

父の実家では、言うことを聞かないと「やいとをすえる」とも脅されていました。「やいと」というのはモグサのお灸のことです。祖父の身体にはこのお灸による火傷の痕がたくさんあるのを見たことがあり、実際に火をつけるのも見ましたから、「やいと」をすえられる恐怖で私は完全に従順である必要を感じたものです。

父は飼っていた犬や拾ってきたネコを殺すとか捨てるとか繰り返し言いました。橋の上から川に投げ捨てれば簡単だと。実際に捨てに行ったこともありました。あれにも強い恐怖を感じたものです。

飼っていた犬のコロを蹴ったり棒で叩いたりする父を見ることも恐怖でした。お隣りの家で、その家の子供達が彼等の父親に竹刀で叩かれているのを目撃したことも、恐ろしい経験でした。

父親に対しては従順でないと、自分もあのような目に遭うと子供は考えるものです。

私が幼かった頃は、恐怖や暴力で子供を支配しようとすることはあたり前のことだったのかもしれません。繰り返し繰り返し、父や父の実家の人達が脅すようなことを言いましたが、それが幼い子供の心を傷つけているなどとは考えもしなかったのでしょう。

しかし、習慣的に繰り返し怖がらせたり恫喝したりし続けると、それがトラウマとなってしまい、その子供が一生苦しむ場合があります。あるいは、その子供は自分がされたのと同じことをする人間に育つのです。


怒られ続ける暮らし

私は本当に些細な不注意でも、私に責任のない失敗でも、父親から叱られ怒鳴られました。

車から降りる時、ドアを閉めようとした時に妹の指を詰めてしまったことがありました。激しく叱られましたが、ドアのところに誰かが指を置いていないかどうかを毎回確認する人がいるでしょうか。

ましてや、私は子供ですよ。

自分のせいで妹が指を詰めたと罪の意識で苦しんでいる子供に、追い打ちをかけるように怒鳴るとはねえ。

下の妹と2段ベッドで遊んでいた時に、私が妹の腕の上に転がって妹の腕の関節が外れたことがありました。あの時も激しく叱られましたが、私は遊んでいただけなのです。

食べ物のことで妹達とケンカになれば、「お姉ちゃんなのに我慢しなかった」と私が責められます。お姉ちゃんでも子供なんですよ。年上の子供に、年上であるというだけの理由で我慢をさせるのは良くないです。

とにかく、私は常に怒られていました。うっかり電気を消し忘れて寝てしまっても、ドアを閉める時に大きな音を立ててしまっても、父親の気にさわることならどんなことでも怒られる可能性がありました。

父親の機嫌が悪い時なら、そうした些細なことでも激昂して怒鳴りました。怒られたくなければ、どんなミスもしてはいけません。子供の心は萎縮します。

家庭は心が安らぐ場所であるはずなのに、父親がいると細心の注意を払っていなければならない緊張する場所になっていました。いつも不安を感じてビクビクしていました。


大声と恐怖

激高した父に大声で怒鳴られることが頻繁でしたから、「大きな声」と「恐怖」が結びついてトラウマになったのは当然です。

父は、お酒を飲んで酔っ払うと必ず大声を上げました。他の人にからんだり、暴れたりしました。そのせいで母が苦労しているのを子供の私は見ていました。

次第に、父がお酒を飲むと「怒り」や「嫌悪感」を感じるようになったのは、自然の成り行きでした。


お金の心配

お金がなくても何とかやっていけるという楽観的な考えの人もいるのでしょうが、私は強い不安を感じます。幼い頃から、母親がお金で苦労しているのを見ていましたし、母の不安や心配を子供の私も感じていましたから。

貧乏だから自分が他の子供達と違うという経験もしました。保育園のお泊り保育の時、どの子もパジャマを着ていたのに、私だけが短い浴衣を着ていました。私はパジャマなんか持っていませんでした。

どうして浴衣を着ているのかと他の子供に言われて、自分だけが違うことに気づきました。なんだかバカにされているようで嫌だなあと思ったのを覚えています。

小学校の4年生の時、交通事故で車にはねられて骨折し、1ヶ月以上入院したことがありました。9歳でした。両親は入院費用の支払いで苦労しただろうと思います。

入院費用のことを話しているのを何度か聞きました。病室のベッドの横で話していましたからね、全部聞こえますよ。私のせいだと言われているようで、罪の意識を感じたものです。

家庭の経済的な問題は、私にある種の劣等感を生みましたし、強い不安と結びついてしまいましたが、私は母親に感謝しています。ひもじい思いをしたことは一度もありません。

やりくりに苦労していたはずですが、いつも美味しいものを作って食べさせてくれました。学校の遠足の日には先生に感心されるようなお弁当を作ってくれたので、優越感すら感じたものです。


絶対に言い返せない

父親は、私が幼い頃から言い訳を言ったりして何か言い返すと「口答えするな!」と激昂しましたから、私は何も言い返せない子供になりました。私の妹達は言い返すことが出来ましたが、特に7歳年下の妹は黙って我慢したりしませんでしたから、勇気があるなあと感心したものです。

ある寒い冬の日のことです。私は小学校の高学年だったと思います。その日、私は白菜を洗えと言われたんです。こういうことは、いつも長女の私がさせられました。

真冬のことですから水道の水は凍るほど冷たかったです。当時は瞬間湯沸かし器というのがあったんですけど、それを使って少し温めた水で洗っていましたら、父親が「湯沸かし器を使うんじゃあねえ!ガス代がもったいなかろうが!」と怒鳴りました。

いつもなら黙って耐えるしかなかったわけですが、あの時は勇気を出して「お水が冷たいから」と言ったんですよ。そうしたら「口答えするな!」と父親は激昂しました。「お母さんはいつも水で洗っとるだろうが!」と怒鳴りました。

心の中で「お母さんだってお湯を使いたいはずだ」と叫びましたが、そんなことを口に出せるはずもなく、その後は手の感覚が無くなるような冷たい水で洗いながら、悲しみと父親に対する怒りが湧き上がりました。

言いたいことを言える能力は重要です。自分の意見を表明できる、他人に自分の気持ちを言葉にして伝えられる、そういう能力は生まれ持っている能力ではありませんよ。

そういうことが出来るように育てるのは、親の責任です。幼い子供でも言いたいことはあるのですから、たとえ悪戯の言い訳であってもちゃんと子供の言い分を聞いてやるべきです。そして話し合って子供に納得させるべきです。

親が一方的に叱り、しかも感情的に怒鳴ったりして、子供に発言のチャンスを全く与えないなんていうのは絶対に間違っています。


緊張する場所か心が安らぐ場所か

私が長女だったからか、父親の苛立ちや怒りは、おもに私に向かっていたと思います。

いつどこでどんなことが理由で父親が激昂するか分からない。幼児でもそんなことには気づきますよ。ですから、父が家にいる時には家庭は緊張する場所だったのです。

たとえ、父親の機嫌が良くて、家族で笑いながらテレビを見ていた時でも、いつ父親が激昂するか分からないという不安はありました。親の顔色を見る子供だったわけです。機嫌が悪いと明らかな時は、隠れているしかなかったでしょう。

父がいない時は、優しく賢明な母親のおかげで家庭は安心できる場所でした。母親がいなかったら、私はどんな大人になっていたでしょうか。もっと早くから精神的な病気に苦しんだに違いありません。

私が子供の頃には、親が子供に愛情を言葉にして伝えたり、抱きしめたりして態度で伝えたりすることはありませんでした。日本にはそういう文化がなかったです。今では変わって来ているんだろうと思いますけど。

子育てをされている皆さんは、少なくとも貴方のお子さんが、自分は親に愛されていて親にとって大事な存在なんだということに気付くように育てて下さい。

そして、貴方が子供さんに対して発する言葉が、どういう人に育つかを決めるんだということも忘れないで下さい。

感謝の気持ちを伝える「ありがとう」や他人への共感の基本である「だいじょうぶ?」や自分の過ちを詫びる「ごめんなさい」は、子供に言えと教えることで身につくのではありませんよ。親が子供に対して言ってやることで身につくのです。


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