2020年10月25日

トラウマになった出来事

もうすぐ60歳になるという私が、いまだに苦労している「不安」や「恐怖」の感情は、幼い頃の家庭に原因があったことは確かです。

幼い頃のことはよく覚えていないのですが、最近このブログで「子供の頃のトラウマ」というものを度々話題にしていることもあって、幼い頃の出来事を思い出そうと考え続けていましたら、すっかり忘れていたことをいくつか思い出しました。


あらゆることで怒られる緊張した暮らし

私は、本当に些細な不注意や、子供の私にはどうすることもできなかったはずの失敗を理由に、あるいは父が気に入らないことならどんなことでも、しょっちゅう怒られていました。

ものを落とせば「何を落としたんなら!」と大声が飛んでくるし、障子をきちんと閉めなかったり、大きな音を立てて鼻をかんだり、うっかり電気を消し忘れて眠ってしまったりすることでも、大きな声で怒られました。機嫌が悪ければ、そんな些細なことも鬼の形相で怒鳴りました。もうありとあらゆることです。

小学生の頃、車から降りる時、ドアに妹の指を詰めてしまったことがありました。私が不注意だったと怒られました。すでに罪悪感を感じているのに大声で叱責され、大変つらかったです。

歳の離れた一番下の妹と2段ベッドで遊んでいた時に、私が妹の腕の上に転がって妹の腕の関節が外れたことがありました。あの時も激しく怒られましたが、私は遊んでいただけなのです。

父に怒られないように、ミスをしないようにと、あらゆることに細心の注意を払って緊張している、そんな子供時代でした。


車にはねられた5歳の時のこと

父と二人、何かの用事で町の商店街に行った時のことです。父が急に道路を渡って行ってしまったので、父に遅れてはいけないと急いで後を追った私は、右手から来た軽トラックにはねられました。

父は、軽トラックにはねられた私を叱責しました。車が来ていないかどうか確認しなかったことを叱ったのです。

車にはねられたショックに加え、父に怒られた私は、朦朧としながら心がつぶれそうでした。家に帰って休んでいる間も、頭がクラクラして気持ちが悪く、自分の不注意を後悔したのを覚えています。


迷子になった5歳の時のこと

その日、保育園から自分の家に帰るのではなく、バスに乗って父の実家に行く必要がありました。5歳でしたし、一人でバスに乗ったことなどもちろんありませんでしたから、非常に不安でした。

父の実家がある集落の近くから毎日バスで保育園に通っている子供達の集団があったので、その子達と一緒に帰ることになっていました。ただし、その子達は集落に入る手前で降りてしまうので、私は一緒に降りないで、迎えが出ているバス停までずっと乗っていろと言われていました。

それなのに、その子達がバスを降りた時に一緒に降りてしまったのです。

皆んなが家に帰ってしまい、崖沿いの暗い見知らぬ田舎道に一人取り残された私は、途方に暮れ、激しい恐怖と不安で泣き始めました。泣きながらバスが去った方へ歩くしかありませんでした。

祖父が自転車で向えに来たということは知っていますが、祖父の姿を記憶してはいません。覚えているのは迎えに来てくれたという安堵感よりも、「他の子達と一緒に降りてはいけないと言われただろう!」と叱られたことなのです。父の実家に戻ったら父に怒られ、他の大人達には冷やかされました。

自分の不注意でミスをすると、怒られる上にこのようなつらい経験をするのだと、幼い私は思い知ったのでした。


同じクラスの女の子が父親に惨殺された6歳の時のこと

同じクラスの女の子が自宅で父親に斧で惨殺されるという事件が起きたのは、小学校に入学して間もない6歳の時のことです。話を聞いて来た父が、母や私に事件の詳細を語って聞かせたので、その様子を想像した私は激しい恐怖を感じました。

子供が父親に殺されることもあるのだと知ったこの事件は、まさにトラウマとなる出来事でした。クラスの子供達は先生に連れられてお葬式に行きましたが、事件の詳細を知っていた私は、お葬式に行くことにも恐怖を感じたことを覚えています。


従順でないと恐ろしいことが起きる

私が幼かった頃、町には有名な「おしかさん」と呼ばれる女性がいました。記憶していることから考えると、この女性は初老の女性で、リヤカーを引っ張って廃品を集めて回っているホームレスのような人でした。

言うことを聞かないと「おしかさんに連れて行ってもらう」と、父や父の実家の人達は繰り返し脅しました。そして、「おしかさん」は父の実家がある集落に出没する人でもあったので、父の実家に行く時にはいつも不安と恐怖を感じたものです。

父の実家では、言うことを聞かないと「やいとをすえる」とも脅されていました。「やいと」というのはモグサのお灸のことです。祖父の身体にはこのお灸による火傷の痕がたくさんあるのを見たことがあり、実際に火をつけるのを何度も見ましたから、「やいと」をすえられるというのは大変な恐怖でした。

父は飼っていた犬や拾ってきたネコを殺すとか捨てるとか繰り返し言いました。橋の上から川に投げ捨てれば簡単だと。実際に捨てに行ったことがありました。父が犬やネコを殺すと言う度に強い恐怖を感じたものです。

飼っていた犬のコロを蹴ったり棒で叩いたりするなどの暴力を振るう父を見ることも恐怖でした。

近所の家で、その家の子供達が父親に竹刀で叩かれているのを目撃したことも怖い経験でした。父親に対して従順でないと、自分もあのような目に合うと考えるようになりました。

私が幼かった頃は、恐怖で子供を支配しようとすることはあたり前のことだったのかもしれません。繰り返し繰り返し、父や父の実家の人達が子供を怖がらせるようなことを言いましたが、それが子供の心を傷つけているなどとは考えもしなかったのでしょう。

しかし、習慣的に繰り返し怖がらせ恫喝し続けると、子供の心に傷をつけることになり、子供はその傷のせいで一生苦しむことになるかもしれません。


大声と恐怖

父に大声で怒鳴られることが常だったので、「大きな声」と「恐怖」は結びついていました。

父は、お酒を飲んで酔っ払うと必ず大声を上げました。他の人にからんだり、暴れたりしました。次第に、父がお酒を飲むことに恐怖や嫌悪感を感じるようになったのは、自然の成り行きでした。

今でも、大きな声を上げる人に恐怖を感じることがあります。うちの夫の家族は、知り合った頃、しょっちゅう大声で怒鳴り合うように会話していましたから、とても不安な気持ちになったものです。


お金の心配

お金がなくても何とかやっていけると楽観的に考える人もいるのでしょうが、私には不安の原因です。

幼い頃から、母がお金で苦労しているのを見聞きしていましたから、母の不安や心配を子供の私も感じていました。

貧乏だから自分が他の子供達と違うという経験もしました。保育園のお泊り保育の時、どの子もパジャマを着ているのに、私だけが短い浴衣を着ていました。私はパジャマなんて持っていなかったのです。誰かが何故私は浴衣を着ているのかと尋ねました。これが私の寝間着だと答えた記憶がありますが、自分だけが違うことに気づいて恥ずかしかったのを覚えています。

小学校の4年生の時、交通事故で車にはねられて骨折し、1ヶ月以上も入院したことがありました。9歳でした。両親は、入院費用の支払いで苦労したようです。病室でお金のことを話しているのを何度か聞いて、私は罪悪感を感じたものです。


父には何も言い返せない

怒鳴られた原因が理不尽だと思っても、何か言い返すともっと怖い目に合うという経験を繰り返していたので、言いたいことがあっても口に出せないようになっていきましたが、それを決定づけるような出来事がありました。

ある寒い冬の日、台所の瞬間湯沸かし器のお湯で何かを洗っていた時、それを見た父に「湯沸かし器を使うんじゃあねえ!ガス代がもったいなかろうが!」と怒られたのです。

真冬のことです。水道の水は凍るほど冷たかったので、勇気を出して「お水が冷たいから」と言いましたら、「口答えするな!」「お母さんはいつも水で洗っているだろうが!」と恐ろしい顔をして怒鳴りました。

心の中で「お母さんだってお湯を使いたいはずだ」と叫びましたが、そんなことを口に出せるはずもなく、その後は手の感覚も無くなるような冷水で洗ったのでした。

こうして、私は不満や怒りを感じても、沈黙するしかなくなったのです。


私ばかりが怒られる

私が長女だったからか、父の苛立ちや怒りは、おもに私に向かっていました。

いつ、どんなことが理由で怒鳴られるか分からない、そういう暮らしでしたから、父が家にいる時には常に緊張していて、不安と恐怖を感じていました。

あらゆることに注意を払って、怒られる原因を作らないように、神経をすり減らすようになりました。

「父は私にばかり怒っていたけど、本当は私を一番可愛いと思っていたはずだ」と妹に言われたことがありますが、私にそんな実感はありません。姉妹三人のうち一番傷つけられたのは私だということは確かです。


お姉ちゃんだから我慢しなさい

私は長女ですから「お姉ちゃんだから我慢しなさい」「お姉ちゃんだから妹に譲りなさい」と、よく言われました。年長だからと不利や不公平を我慢しなくてはならないというのは理不尽なことでした。

私の誕生日と一番下の妹の誕生日は近かったので、毎年妹の誕生日に二人分を一緒にお祝いしていました。仕方がないことだと最初からあきらめていましたけど。

でもね、お姉ちゃんだからと言ってもまだ子供なのですよ。

親子のスキンシップというものが乏しい日本の社会ですが、私は親と手をつないだとか抱きしめられた記憶が全くありません。

母はいつも妹を抱っこしていましたから、私は母のエプロンの端を握っていたものです。

自分のことですけど、なんだか可哀想です。思い出すと苦しくなります。


思春期を迎えた後

初潮を迎え、身体が変化し始め、性的なことを理解するようになった後は、ブログに書くことははばかられるような出来事がいろいろありました。

家庭がつらい場所だったので、早くここを出ていきたいと願っていましたが、長女は婿養子を取って家を継ぐか実家の近くに住んで親の面倒を見るのが義務であると、父や父の実家の人達に繰り返し言われ、不安と絶望を感じていました。


トラウマ、「心の傷」というのは、ある特定の出来事というよりも、日常的に繰り返された出来事の結果だったと思います。


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