保育園でのことは、遊び時間にマグマ大使ごっこをしたことや図画工作の時間のこと、給食の時間のこと、お泊り保育の日やクリスマスの催しや発表会のことなどいろいろ覚えているんですけど、家庭での思い出はほとんど無いのです。
断片的に覚えているのは、当時住んでいた家の壁であったり、ふすまだったり、畳だったり、照明の明かりだったりします。
記憶というのは感情と一緒に保存されるものです。
記憶がないというのは、脳の病気や怪我などで記憶を作ったり保存することができない場合を除けば、感情を押し殺して暮らしていたせいで記憶が作られなかったか、あるいは解離性障害で見られるように潜在意識的に記憶を切り離してしまったか、ということが考えられます。
解離性障害は、本人にとって堪えられない状況での感情や記憶を切り離して、それを思い出せなくすることで心のダメージを回避しようとすることから生じる障害です。最も重症なケースでは、切り離した感情や記憶が成長して別の人格となって現れる場合があります。
私が1歳半の時に早産で生まれた妹は、片手に乗るほどの未熟児だったそうです。当時住んでいた小さな家で生まれました。喘息があり、私の母は妹の世話にかかりきりだったことが想像できます。
バスの運転手をしていた父親は、当時は給料の大半をお酒に使ってしまう人だったそうです。女性問題もあったそうですが、最も母を困らせたのは住んでいた小さな家の中でたくさんの鳥を飼っていたことだったと聞きました。ウグイスやメジロを捕まえて飼っていたのです。
未熟児で生まれた妹の喘息がひどかったので、家の中で鳥を飼うのをやめてほしいと何度か頼んだけど、聞いてもらえなかったと母は言っていました。
父は借金をしてでも欲しい物を買う人でしたし、飲酒のこともあり、家族はいつも困窮していました。お金の心配をする母の姿を見て、子供の私もお金の心配をしていたことを覚えています。
未熟児で生まれた妹は健康の問題があってしょっちゅう泣いていたそうですが、泣き続けると父が不機嫌になり「うるせえ!」と怒こるのでつらかったと母が言っていました。赤ちゃんが泣き続け、父が怒れば、それに怯えて私も泣いたのでしょう。私まで泣くと父はさらに苛立って、私に怒鳴っていたのではないかと思います。
喘息で苦しむ未熟児の赤ちゃんの世話と生活苦と、夫の飲酒問題や女性問題で母は苦労していたのでしょう。母がその頃の私のことを覚えていないのは理解できます。
ただ、とにかくしょっちゅう泣いていたことは分かっています。そして、どんなに激しく泣きじゃくっていても「泣くな」と怒鳴れば泣きやむ子だったという話は、私が大人になってから聞きました。父はそれを自慢気に話していました。泣きやんだのは恐怖心からのことでしょうに。
幼い頃の私は、知らない人が家を訪ねて来ると激しく泣いて、客は結局家に上がることもできずにそのまま帰ることもあったと聞きました。
時々お隣りの家に預けられていたとも聞きました。夕方になって、その家のおじさんが帰宅するのが怖かったのは覚えています。
「三つ子の魂百まで」ということわざがあります。もうすぐ60歳になるというのに、この歳になってもまだ「不安」と「恐怖」の感情に苦労している私は、幼児の頃にはすでに強い不安の中で生きていたことは確かです。
おそらく、幼い頃の私は、家庭では感情を押し殺して暮らしていたのではないかと思います。そう考えると、記憶がないというのも納得できるのです。
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