義母(うちの夫の母親)の家族の歴史は、義母の妹の旦那さんが家系を調べることが趣味で、自分の家系だけでなく妻の家系も調べたおかげでいろいろと分かっています。
義母の結婚前の姓は「リヴィングストン」と言うのですが、「リヴィングストン」という姓を持つ人々のルーツはスコットランドにあるそうです。綴りが微妙に違うことがありますが、ルーツは同じスコットランドのリヴィングストン一族なんだそうです。
義母の妹の旦那さんが見つけた最も古い記録は、1270年に生まれたアーチボールド・ド・リヴィングストンという人なんですけど、1270年って日本では鎌倉時代ですよ。
この人の子供、孫、ひ孫、と家系を図にしていくと次々に枝分かれして大きな木のようになりますよね。それで、英語圏では家系図のことを「ファミリーツリー」と呼びます。
鎌倉時代のアーチボールド・ド・リヴィングストンから何代目になるのか分かりませんが、スコットランドの西の方にあるマル島で1725年に生まれたジョン・リヴィングストンという人がいました。1725年というのは、徳川吉宗が将軍だった亨保時代です。
このジョン・リヴィングストンの四男がナイル・リヴィングストンという人で、この人あたりから詳しい記録が残っています。誕生日や生まれた場所、結婚した相手や住んでいた家の住所、死んだ日や場所まで。
おそらく教会に残っている記録のおかげでしょう。
ナイル・リヴィングストンの次男がジョン・リヴィングストンという人で、この次男のジョンには、ジェイムズという息子がいました。
ジェイムズは、1795年にスコットランドのエジンバラの近くで生まれています。
エリザベスという女性と結婚し、6人の息子を連れてオーストラリアに移民したのが1834年のことでした。徳川家斉の天保時代です。
おそらく何かやむを得ない理由があったと思われるのは、移民船「ザ・パーマー」に乗った時、エリザベスは妊娠7ヶ月だったからです。
9月9日にエジンバラのリース港を出て、タスマニアのホバートに着いたのは、翌年1835年の1月27日でした。4ヶ月半もかかっているんですよ。4ヶ月半も6人の息子を連れた船での暮らし、しかも妊娠していて、乗船して1ヶ月くらいで赤ちゃんが生まれているんです。
移民船の衛生状態は決して良いものではなかったはずですし、赤ちゃんのおむつの洗濯とか、どうやっていたんでしょうか。移民船での4ヶ月半は大変だったことでしょう。
7人目の息子は10月10日に船上で生まれ、フランシス船長の名前と船の名前をとって、フランシス・パーマー・リヴィングストンと名付けられました。
うちの夫は、このフランシス・パーマーの子孫なんです。
フランシス・パーマーは2回結婚しました。最初の結婚で生まれた次男ジョージ・リヴィングストンには11人も子供がいたらしいですが、三男がダンカンです。ダンカンが、うちの夫の曽祖父です。
ダンカンと結婚したサディーとの間には4男3女が生まれました。三男のセオがうちの夫の祖父です。セオには4人の娘が生まれましたが息子が生まれなかったので、リヴィングストンの姓は途絶えることになりました。
しかし、途絶えたのは大きなファミリーツリーのセオの枝だけ。セオの兄弟の枝からは、さらにリヴィングストンが続いています。
それにしても、調べれば誰でもこういうファミリーツリー(家系図)を作れるだけの様々な記録が残っているというのは、うらやましいことです。
英国で定期的な国勢調査が行なわれるようになったのは1801年からだそうですが、国勢調査のようなものはそれまでにも行なわれていましたし、遥か昔から教会は教区の人々の洗礼、結婚、葬式の記録を残しています。
オーストラリアへ移民した人々の場合は、移民船の乗船者リストが残されていますし、英国の植民地として始まったオーストラリアでも英国と同様の国勢調査が行なわれましたから、ごく普通の一般人でもファミリーツリーを作れるだけの様々な記録が保存されていて、こうした記録をデータベース化している各種サービスが使用料を払えば利用できます。
有名人の家族の歴史をさかのぼってルーツを調べてくれるTV番組シリーズ「Who Do You Think You Are」というのがありますが、大変興味深いですよ。
オーストラリアは囚人を送り込むための植民地でもあったので、先祖が囚人だったという話はよく聞きます。人々が貧しくて食べ物にも困っていた時代、パン一切れを盗んだという理由でもオーストラリアへ送られました。
オーストラリアでは、囚人の祖先がいても恥とは受け取られません。むしろ自慢話になるくらいで、好意的に受け取られます。
義母のファミリーツリーの中には囚人はいなかったようですが、アルコール中毒で死んだ人はいました。曽祖父ダンカンの家族あたりからの逸話は、いろいろと伝えられています。
オーストラリアに移民したジェイムスとエリザベス夫婦の暮らしは、決して楽ではなかったでしょうが逞しく生きたようです。ジェイムスは、タスマニアで大工として働きました。
曽祖父のダンカンは農夫でした。ヴィクトリア州北部で土地を手に入れて農地を開拓したそうですが、夏は灼熱となる土地ですし、7人も子供がいて、どのような暮らしだったのでしょう。苦労が忍ばれます。
祖父のセオは、蒸気機関車の火室に石炭を投炭する仕事をしていましたが、その後運転士となりました。4人の娘を抱えた生活は楽ではなかったそうで、義母は折に触れて家族がどんなに貧しくて生活が大変だったかを話してくれます。
6人家族で小さなローストチキンを分け合ったこと、ベーコンを焼いて出た脂は決して無駄にせず保存して料理に使っていたこと、いかにして冬の寒さを耐え忍んだか、娘4人がどのようにして一つの部屋を共有していたかなど。貧しくても団結して愛情に溢れた家族だったようですけどね。娘達はしっかりとした教育を受けて、それぞれキャリアを築きました。
4人の娘達の父親への愛情が強いことからは、セオの人柄が分かります。一番年長の孫と結婚した日本人の私にも大変親切な人でした。
義母の家には、こうした先祖の人達の古い写真が飾ってあります。まだ幼児だったセオの横でフェンスを建てているダンカンの写真とかもあるんですよ。
ファミリーツリーを見ながら、家族の歴史が映画のように見えて来ます。
うらやましいです。
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