昨日書いたキッチンの天井のペンキ塗りの話の続きですが、ペンキ屋さんは約束の8時半より15分も前にやって来ました。
テーブルや椅子は運び出してあったのですが、電子レンジなどはそのまま置いていましたから、これで良いかと聞いたらパーフェクトだとおっしゃって、どういうふうに作業をするかを手短に説明してくださいました。
作業に必要なものを運び入れるためにキッチンから出て行こうとした時、「ところで、私の名前はピーターです」とおっしゃったので、「私はヒロコです、日本の名前です」と言ったら、そこからまた、
おしゃべりが始まったんですよ!
私がいつ頃オーストラリアに来たのか、何歳頃に来たのか、なぜオーストラリアに来たのか、そういう質問からピーターさん自身の話になりましてね。キッチンから出て行こうとしていたのに戻って来て、しゃべるしゃべる!
ピーターさんのご両親が移民だったことは前回天井のシミの状況を見に来られた時に聞いていましたが、ヨーロッパのどこの国だったか忘れていましたけどオランダからの移民だったんですよ。お父さんのご両親と一緒に移民されたそうです。
第二次世界大戦でナチスに占領されたオランダは、戦禍で国土が激しく荒廃しました。なんでも堤防が破壊されて干拓地の農地が浸水してしまったそうですしね。戦争末期にはナチスによる食料封鎖によって2万2000人もの人々が餓死するという悲劇も起きたそうですけど。
ピーターさんのお父さんは、物資不足が深刻だった戦後の厳しい状況の中、オーストラリアに来れたことはラッキーだったとおっしゃっていたそうです。船で7週間もかけて来られたそうですよ。
お父さんもペンキ屋だったそうですが、そのお父さんもペンキ屋だったそうで、オーストラリアのペンキ屋業者がスポンサーになってくれて移民できたのだそうです。
ニュー・サウス・ウェールズ州のオーブリーという街の近くにあったという移民センターの近くに住み、ペンキ屋として働いてクイーンズランドに移り住み、それからどこに住んでどうのこうの、お母さんはいまだに健在だけど、腰を骨折して身体が弱ってしまったことや認知症でいろいろなことを忘れていることなどノンストップでしゃべり続けてね、仕事開始の8時半は過ぎてしまいました。
おしゃべりなペンキ屋さんなのです。
天井のシミの状況を見に来てから5ヶ月も経っていたわけですが、この家の持ち主から電話がかかって来たんだそうで、まだ仕事をする気があるのかと言われて「はい、やります!」とすぐに予定を入れたそうです。
仕事を始めたのは8時45分頃でした。到着してから30分も経っていました。
床全体をシートで覆い、残っていた家具にもシートをかぶせました。音楽を聴きながら仕事をするためにラジオをセットして、やっとペンキを塗り始めましたが、ペンキ塗りはあっという間に終わりましたよ。
実際にペンキを塗っていた時間よりも、シートを敷いたり片付けをしたりしていた時間の方が長かったかもしれません。シートを片付けた後は、掃除機もかけてくださったんです。
まさか掃除機をかけてくださるとは思っていなかったからお礼を言うと、お父さんに教えられたことだとおっしゃいました。
ペンキ屋だったお父さんからは、いつでも自分の家だと思って丁寧に仕事をすることが一番大事だと教えられたんだそうです。シートを片付けた後、最後に掃除機をかけることはお父さんから教えられて今でも必ずしているのだそうですよ。
終了したのは9時45分頃でした。
ピーターさんは次の家に向かわれました。仕事の予定がびっしり詰まっていて忙しいそうです。おしゃべりだけど嫌な感じがしないし、人に好かれる人柄です。ペンキ塗りの腕前は優秀なので、自然と仕事の依頼が増えるのでしょうね。
我が家のキッチンの天井は、真っ白になりました。
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