2019年3月26日

私達はみんな違ってあたりまえ

ホモ・サピエンス(Homo Sapiens)とは、私達人類が属する種の名前。外見上の違いや文化的違いはいろいろあっても、みんなホモ・サピエンスの「ヒト属」。

この「ヒト属」の歴史を調べてみると、記録が残っている限り「ヒト」には様々なタイプがいたことが明らかです。あらゆる外見上の違いもさることながら、オスとメスのどちらかに分類することが難しい、オスとメスとの間に位置する「ヒト」が大昔からいたんです。

「ヒト」という生物には、生物学的にオスでもメスでもない、あるいはオスでもあるしメスでもあるというタイプがいるわけですよね。オスとメスの両方の生殖器を持つ「ヒト」もいるのですし。

心の性と身体の姓が一致しないタイプの「ヒト」がいても不思議ではないし、ましてや性的指向に関して言えば、「ヒト」以外の動物にも同じ性の相手とつがいになる場合もあるわけなんだから、より複雑に進化している「ヒト」にこうした多様性があるのは当然のことでしょう。

みんな違ってあたりまえだったはずの「ヒト」が、一部の「ヒト」に対して差別や迫害をおこなうようになったのは何故なのでしょうか。

多様性を受け入れるというか、多様なのがあたりまえだったはずの「ヒト」社会が、どうして現在見られるような凄まじい差別や迫害をおこなうようになったのかを考えると、宗教の影響は大きいですよ。

どうして、自分と同じ性の「ヒト」を愛することが死刑に値するというような考えが生まれたんでしょうかねえ。

外見の違いもこれほど多様なら、心の違いも多様であることが、なぜ認められないんでしょうかね。

幼児性愛者のように他の「ヒト」の人権を侵害するわけでもないんですよ。

人種差別、民族差別、性差別、障害者差別、階級差別、…

まあホント、「ヒト」というのは、どうしてこれほど様々な理由で他の「ヒト」に対して偏見を持ち、除外行為や拒否行為をせずにいられないんでしょう。

ホモ・サピエンスというのは、ラテン語で「賢い人間」という意味だそうですが、「ヒト族」の中で現存する唯一の種であると言われる私達は、本当に賢いんでしょうか。


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