2019年3月25日

信仰する価値があるのか

先日、ニュージーランドで起きた極右白人オーストラリア人によるテロ事件の後、犠牲になったイスラム教徒への同情とイスラムフォビア(Islamophobia)に対する批判が、メルボルンでも話題になっています。

イスラム教やムスリムに対する憎悪感情や宗教的偏見を否定するのは良いのですがね、「イスラムの教え」の良いところを強調する発言を聞くにつけ、私の心には疑問が湧き上がるのです。

イスラム教にしろキリスト教にしろユダヤ教にしろ、それらの信者たちが尊敬する「神様」というのは、いろいろ考えてみると「友愛に満ちた心の優しい公正な」神様じゃあないんですよ、言っておきますけど。

むしろその反対なのです!

スティーブン・フライの言葉を借りると、

まったくもって凶悪で、気まぐれで、極悪!

神様がこの世を作ったと言うけど、その世の中というのは、一部の人達によっては非常に惨めな世界です。不正と痛みで満ち溢れている理由は、その神様の極悪なやり方のせいなのです。

どうしてこんなに惨めな世界を創った「気まぐれで、卑劣な心の、バカな神様」を尊重しなければならないのですか?

イスラム教もキリスト教もユダヤ教も、

同性愛を犯罪扱いしているのですよ!

性的マイノリティーの迫害は、現在でも続いています。

特にひどいのがイスラム圏の国々であることを忘れてはいけません。イランやサウジアラビアやイエメンでは同性愛者は死刑です。死刑にはならないまでも、多くのイスラム圏の国々では同性愛者に対して厳しい処罰が課せられています。

ブルネイでは来週中に法律が改正されて、改正後は同性愛者は死刑になるそうです。鞭打ちあるいは石打ちによる死刑だそうですが、これも神様の教えによるものです。

犯罪だと考えられていますからね…

こんな人権侵害が、宗教のもとに、つまり神様の教えのもとに、正当化されているわけですよ。性的マイノリティーにとって、この神様の世界というのは極悪以外の何物でもないのです。

人々は本当の自分を隠し、苦しみと痛みの中で偽りの生を生きるしかありません。

一部の人々の人権を認めず、排除したり迫害したりすることが認められるどころが求められる、そんな宗教は信仰する価値などない、というのが私の考えです。


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