2018年1月4日

したくないならしなくていいのか

元旦の朝、私は再び具合が悪くなりかけていました。

岡山の田舎に住んでいる高齢の両親に電話をかけなくてはいけないと思い、緊張と不安で心臓のバクバクが始まっており、深い溜め息と深呼吸を続けていたのでした。

ここのところがね、分からない人には分からないんだろうと思うんです。

実家の両親に電話をかけて「明けましておめでとう」と挨拶することが、なぜそれほどのストレス要因になるのか。

原因の分析をここに書き始めると大変な時間がかかりそうなので、それはしませんが。

とりあえず携帯電話に明けましておめでとうのメッセージだけは送りました。メールのように、顔を合わさず声も聞かず一方的なコミュニケーションなら問題なくできるのです。(それをコミュニケーションと呼べるかどうかは別問題。)

お正月には私が電話をかけてくるのを期待しているはずの両親。

その期待に応えるのは当たり前だ!
新年の挨拶は社会マナーの一つであって、しない方がおかしいのだ!
学校の先生をしていたような人間が、挨拶の電話一つできなくてどうする!
しなくてはならないことだから、しないという選択肢はないのだ!



しなかったら、親や妹達からどんなふうに思われるかなあ。
父親が怒って私を罵倒している様子が、目に見えるようだな。
歳をとった母はきっと心配しているだろうな、悲しいだろうな。



親を見捨てて外国に行ってしまった長女と、私を恨んでいるだろうな。



妹たちは私のことを何と言っているのだろうか。

怖い! 電話をしなくちゃ!

私は追い詰められて行きました。電話一つのことで。

ところがね、

冷静になって考えてみたら、

孫がいてもおかしくない年齢になったおばちゃんが、遠く離れた国に住む高齢の両親に電話をすることがストレスになって苦しんでいる図…というのが見えたのです。

ちょっと、おかしいじゃないの?

なんで、そこまで親のことを気にする必要がある?

日本の社会マナーというものにとらわれ続ける必要がある?

したくないなら「しない」という選択が、なぜできない?

こうして、朝からずっと元気が出なかった私は、

電話をしなかったのでした。

心の奥に、

「ああ、恥ずかしい…」

という気持ちがあります。

「私って非常識だな…」「電話一つ出来ないなんて情けない…」

と考えてしまいます。

とにかく当たり前のことと社会的に認識されていて自分でもそう考えることが「出来ない」とか「しない」と選択することは、大変難しいことです。

慣習とかしきたり、一般常識、世間体、周囲の期待、いろんなものにとらわれた生き方からなかなか自由にはなれません。その社会を離れて生きているのに。

正月とは関係なく、母に電話をしてみようという気持ちになれたら、その時に電話します。

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