昨夜、夜中に目が覚めた時、いつもはしないのだけどベッドサイドに置いているiPhoneでメールをチェックしたら、日本にいる私の最も大切な友人のJ子からメールが来ていた。
最近何度か彼女にメールを送ったものの返事がないので、実はとても心配していたのだ。彼女自身か彼女のご家族に、何かあったに違いないと思っていた。
メールは短く、彼女のご主人であるKさんに肺がんが見つかったと書いてあった。自覚症状が全く無かったので疑いもしなったらしい。会社の健康診断で見つかったとのことだった。不幸なことに肺がんは進行しており、他の部位に転移のあるステージ4とのことで、メールからは彼女の動揺が感じられた。
私たちは、健康である間は「健康だということのありがたさ」に気づかない。
私は膝を傷めて歩くことが困難になった時、「歩ける」ということがどれほどありがたいことかを思い知ったけれども、そういうことがなければ気づきもしなかっただろう。
「食べ物を食べることができる」のも当たり前のことであって、だれも「食べることができる」ことに感謝などしない。私は、昨夜も、娘が夕食のドライカレーを食べているのを見て「ああ、食べているなあ」と感激した。毎日、娘が食事をするのを見るたびにそう思う。
夫も私も、精神的な病気で苦しんだ時期があり、今でも抗うつ剤を飲み続けていてほぼ普通に生活しているけれど、時々大きなストレスを感じた時に、心の安定はとても微妙なバランスでなんとか保っているだけなのだと自覚させられる。また、あの闇の淵に落ちそうになるからだ。そういう時は、生きているということを意識されられる。そして、「今日」をしっかり生きようと思ったりする。
しかし、安定してくると、そんなことは忘れてしまう。歩けることのありがたさも、すでに感じることがない。
健康だといういことは、当たり前のことではないのに、つい忘れてしまう。
J子へ
私は、あなた達家族の幸せな生活が一日でも長く続くことを願っています。Kさんが、Kさんらしい人生を、できる限り積極的に生きていかれますように。
そしてJ子のために、こんな遠くにいる私には何もできませんが、毎日お祈りしています。
お帰りの前に1クリックを!
0 件のコメント:
コメントを投稿