2011年9月27日

リヴィングストン家のピクニック

私の夫スティーブの祖父セオ・リヴィングストンは、13年前に心臓発作で亡くなった。もしもまだ元気なら今年で88歳になるはずだ。セオの妻、つまりスティーブの祖母のモニカは、セオが亡くなるよりも2年早く亡くなっている。セオとモニカの夫婦には、4人の娘がいた。上から順に、ジョーン、グレニス、イヴォンヌ、そしてロレーンの四人姉妹で、2番目のグレニスがスティーブの母親である。

ルイーザ・オルコットの「若草物語」のマーチ家のように、このリヴィングストン家は強い絆で結ばれた家族であった。セオは、蒸気機関車の火室に石炭を投炭する仕事をしていたが、その後運転士となった。蒸気機関車が電車となってからも運転士として働いたが、四人の娘を抱えた生活は決して楽ではなかった。 夫の母親グレニスは、家族がどんなに貧しく生活が大変だったか、折に触れて話してくれる。それは、ちょっと自慢話のように聞こえるので、貧しかった頃の話が始まると、聞いている我々は、(ほうら、また始まったぞ!)と互いに目配せしながら聞くのだが、6人家族でいかにして小さな一羽のローストチキンを分け合ったか、いかにして冬の寒さを耐え忍んだか、娘4人がどのように子供部屋を共有していたか、面白おかしく話してくれるのだ。

両親が亡くなった後、四人姉妹の団結は以前よりも強くなったように見える。何かことあるごとに、あるいは理由など無くても、しょっ中それぞれの家に集まって一緒に食事をしたり、一緒に旅行したりしている。今では四人ともリタイアしており、一番上のジョーンがパートタイムで看護士の仕事をしている意外は時間がたっぷりあるので、集まりやすいのもあるのだろう。

9月25日は、セオの88歳の誕生日。天気も良いことだし、ピクニックでもしようということになった。一人だけ遠くはなれたキャンベラに住んでいる3番目のイヴォンヌもはるばるやって来た。夫のフィルと末の娘も一緒に。それならみんなに声を掛けようということなって、娘や息子たち、その家族もピクニックに誘うと、遥かクイーンズランドの北の果てとか海外に住んでいるメンバーは無理としても、メルボルン近郊に住んでいるメンバーは全員集まった。

集まった場所は、メルボルンから約1時間ほど東にあるダンデノン丘陵のシャーブルックの森。ここは自然公園になっていて、森の周囲にはピクニック場がいくつも整備されている。こうしたピクニック場にあるのは、バーベキュー施設とトイレとピクニックテーブル。バーベキュー施設は屋根付きの場合もある。ゴミ箱は、設置されていない場合が多い。その場合、ゴミは当然自分で持ち帰る。ピクニック場のバーベキュー施設には、オーストラリアに来て間もない頃にはいつも感心させられていた。薪タイプとガスタイプがあり、いずれも無料で使用できる。予約制ではないので、場所取りには少し早めの到着を要する。バーベキュー施設は、今まで汚れていて使えなかったということが一度も無いので、誰かが掃除しているのかと思っていたがそういうことは無いらしい。もちろんピクニック場の定期的な点検整備は管理する自治体なり団体が行っているが、バーベキュー施設の掃除は、使った人がしているのである。こういうのに慣れているオーストラリ人は、掃除のための新聞紙や油や道具類をちゃんとピクニックに持参してくる。

この日、私達家族が到着した時には、すでにグレニスのパートナーであるロジャーとイヴォンヌの夫のフィルが、バーベキューの準備を始めていた。ガスバーナーをつけ、鉄板を熱して油とペーパータオルで汚れを取り(といっても汚れているようには見えないが)、肉やソーセージを焼く準備をするのだ。ガスタイプではなく薪タイプの場合は、やや手がかかる。使用する薪や木切れは既に準備されているので、森に入って薪を集めてくるようなことは不要だ。バーベキューは男の仕事という暗黙の了解があるようで、いつもピクニック場でバーベキューの準備に取り組むのは男性陣であり、肉を焼くのも、使用後の掃除をするのも男性陣である。


この日集合したリヴィングストン家一族のメンバーは、総勢22人。昨年のクリスマスに比べると小規模な集まりだったが、それでも皆がサラダ類、パン類、デザート類とそれぞれ持参してくるので、使った3つのピクニックテーブルは、置き場が無いほど食べ物で埋まった。



ワインを飲みながらたらふく食べて、おしゃべりに花を咲かせ、最後に天国のセオへ向けて「ハッピーバースデー」を合唱した。空は春らしいパステルブルーに晴れ、リヴィングストン一族の皆は誰も健康そうで、気持ちのよい日曜日の午後はあっという間に過ぎていった。


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